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2020・21年考察

理念・構想・指針としてのベーシックアセット、現実性・実現性は?:ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-4

 宮本太郎氏著『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』(2021/4/9刊) を参考に、社会保障政策視点からは、親Webサイト https://2050socitey.com で、ベーシックインカムの観点からは当サイトで、シリーズ化して投稿を進めてきました。

 これまで当サイトでは以下を。
ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-1(2021/8/20)
ベーシックアセットとは?:ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-2(2021/9/4)
貧困政治とベーシックインカム、ベーシックアセット:ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-3 (2021/9/8)

 親サイトに当たる2050society で以下を。
福祉資本主義の3つの政治的対立概念を考える:宮本太郎氏『貧困・介護・育児の政治』序論から(2021/8/30)
増加・拡大する「新しい生活困難層」:宮本太郎氏『貧困・介護・育児の政治』からー2 (2021/9/2)
貧困政治での生活保護制度と困窮者自立支援制度の取り扱いに疑問:宮本太郎氏『貧困・介護・育児の政治』からー3(2021/9/7)
利用者視点での介護保険制度評価が欠落した介護政治論:宮本太郎氏『貧困・介護・育児の政治』からー4 (2021/9/9)
政治的対立軸を超克した育児・保育政治を:宮本太郎氏『貧困・介護・育児の政治』からー5 (2021/9/11)

 そして、本書の最終章である<第5章 ベーシックアセットの保障へ>を、当サイトで取り上げることにしました。

<第5章 ベーシックアセットの保障へ> の構成

1.福祉政治のパターン
 ・三つの政治の相互浸透
 ・3ステップのパターン
2.社会民主主義の変貌とその行方
 ・ポスト「第三の道」の社会民主主義再生
 ・スウェーデンにおける準市場改革
 ・市民民主主義とコ・プロダクション
 ・両性ケアへの関与
 ・地域密着型の社会的投資
3.ベーシックアセットという構想
 ・二つのAI・BI論
 ・ベーシックサービスの提起
 ・ベーシックインカム派からの反論
 ・サービス給付と現金給付の連携
 ・ベーシックアセットと再分配
 ・「普遍性」「複合性」「最適性」
 ・承認とつながりの分配
 ・「選び直し」のためのビジョン

 最終章の初めの節は<福祉政治のパターン>と題して、貧困・介護・育児政治の展開を総括するものです。
 これは、ベーシックアセットを論じる上でさほど意味があるものとは思えませんので、省略します。

 敢えてその意味・意義を見出すならば、<社会民主主義の変貌とその行方>と題した次節への準備であったと言えるでしょう。
 すなわち、宮本氏は、基本的には、社会民主主義的立場での福祉国家構築を望ましいと思っており、<例外としての社会民主主義>によるこれまでの、ある意味偶然・偶発的な一部の政治から脱し、王道としてのそれを推し進めることを意図しての本書であったと考えるのです。

 そのために、過去の政治的対立の構図・構造を指摘し、望ましい社会民主主義に基づく福祉国家作りの道筋を示したい。
 しかし、そのために決め手となる方針・方策を生み出せない閉塞的なその主張グループに、新たにベーシックアセットという概念を提示し、その実現を見たい。

 では、これからの社会民主主義がめざすべき福祉国家、福祉政治とはどうあるべきか。
 この節で、その取り掛かりとなる提案を行うことになります。
 その表現の一つが<ポスト「第三の道」の社会民主主義再生>というわけですね。

 しかし、ここでもまたスウェーデンとの比較が主になります。
 もうそろそろ他の国の事例や、海外の学者の提案・説などを持ち出して理論付け・バックアップを図るのは止めにしたらどうでしょうか。
 ということで、そうした記述部分は跳ばして、我が国においてベーシックアセットにどう取り組むかという視点に絞って、本論の要旨を抽出します。

再度社会民主主義における準市場と社会的投資を考えてみる

 まず、先に投稿済みの記事
ベーシックアセットとは?:ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-2
で述べた内容の一部を引用・転載しました。

 宮本氏に拠る<準市場>とは、公的財源による福祉制度のなかで市場的な選択の自由を実現しようという仕組みであり、旧来の社会民主主義を乗り越える意図から構想された考え方。
 公的財源により、NPOや協同組合もサービス供給に加わり市民がサービスを選択できることが準市場の仕組みであるとしています。

 また、<社会的投資>とは、人々の力を引き出し高めながら社会参加を広げていく福祉のかたちをいい、 生活困窮者自立支援制度を例に取ると、行政が生活困窮者を一方的に保護するのではなく、包括的相談支援で必要なサービスや所得保障につなぐことをめざす方式、となります。


 準市場においても、社会的投資においても、公的財源や行政などが出てきますから、「公」の関与は必然としつつ、民業・公的事業などから形成される市場や地域や民間に視点を当てた社会という概念がそこに提示されていることが読み取れます。

 社会民主主義に「社会」が付いている意味は、そこにあるというのが私の見方ですが、その道の専門家やそれを目指す人々の考え方・見方はどうなのでしょうか。
 ただ、やはり未だに、<社会的投資>の主体がだれなのか、獏としていることが気にはなっています。
 もう一つ、社会民主主義では、地域社会が果たす役割が期待されている印象を強く持ちます。
 そしてそこでの「社会参加」がキーワードにもなっていると。

社会民主主義と市民民主主義、とコ・プロダクション

 そして、こう道は示されます。

 準市場や社会的投資をとおして、人々を社会参加を可能にする最低限のアセットとつなぐ
 これが社会民主主義刷新の方向であり、ベーシックアセットの福祉国家への道ではないかと論じてきた。
 そのような方向を進む上で、当事者に対して柔軟なサービスを提供できるという点では、行政よりも、非営利を中心にした民間の事業者に強みがあろう。
 さらに当事者と周囲の人々がサービスに直接参加できれば、当事者とアセットの距離は最短になりうる。

 
 なんとも甘い考え、というのが私の感想。
 そしてここで、スウェーデンの政治学者ヴィクター・ペストロフが提起した「市民民主主義」論を用います。

「市民民主主義」とは、介護や育児などのケアサービスにおける民主主義という意味である。


 なんともあっさりした定義(らしきもの)ですが、若干の補足があり、多少抽象的です。

 北欧社会民主主義は、民主主義を社会や経済の領域にも拡張してきたが、ケアサービスについては行政主導の集権的な仕組みが続いていた。
 これに対して重要なことは、準市場の制度を発展させて、公的な財源のもとで選択の自由を広げ、市民が不満なサービスから「離脱」できるようにすることで、サービスの内容について「発言」できる条件を確保することである。

 さらに、「離脱」の可能性をてこにした「発言」という次元に留まらず、利用者たる市民が、サービスを供給する専門職と共同してサービスを実現していくことである。
 これはサービスのコ・プロダクション(共同生産)と呼ばれる。



 さて、いよいよ理想的な姿が描かれ始めた感じがします。
 しかし、これは相当ハードルが高い条件です。
 公的な財源がどうして確保できるのか、どの程度確保できるのか。
 こうした市民民主主義的営為に行政はどう関与するのか。
 なにより、すべての市民が、こうした望ましい選択と発言を、他の支援を利用しつつ実行・実現できるか。
 広範なサービス領域に詳しい、公正な立場の専門家を適切に確保できるか。
 まだまだ不安な問題を挙げることができましょう。
 求められる「市民」の確保・養成だけでも難題と思えるのですが。

 そしてそれをサポートするのが、コ・プロダクション
 また新たに知る用語・表現です。

上野千鶴子氏提案の「福祉多元的主義」のハードルの高さ

 この「コ・プロダクション」の事例として紹介したのが、社会学者で、執筆書が次から次へとベストセラーになる上野千鶴子氏の論考。
 日本では、生協、労働者協同組合、ワーカーズ・コレクティブなどが、介護保険制度や子ども・子育て支援新制度の中でサービスを担っているとし、社会学者上野千鶴子氏が、生協やワーカーズ・コレクティブの福祉サービス調査も踏まえて提案する「福祉多元主義」の基づき描く福祉社会の未来を紹介しているというものです。

「福祉多元主義」、それは
1)官セクター(中央政府と地方政府)の所得細再配分の機能
2)民(市場)セクターにおける資源の最適配分
3)協セクター(協同組合やNPO)における当事者ニーズの顕在化
4)私セクターにおける「代替不可能な情緒関係の調達とケアにかかわる意思決定
を、「それぞれのセクターの能力と限界を前提にした上で、それらを相互補完的に組み合わせる」ものとしています。

 
 これに対して、宮本氏は、皮肉を込めてか、老婆心(老爺心?)からか(上野氏の方が年長ですが)どうかわかりませんが、こう言います。

間違っても、
・官セクターのパターナリズム(生活介入主義)
・民(市場)セクターの収益優先
・協(非営利)セクターのアマチュアリズム
・私セクターの家父長制
がつながるような事態になってはならない。
官民協私がそれぞれの強みを発揮し合うベストミックスこそが追求されなければならない、と。


 私から言わせると、宮本氏自身が掲げるベーシックアセット自体が、獏とし、先行きに不安感を抱かせる概念・理念先行の構想であることを考えると、「そういう言い方はないでしょう」となるのですが。
 まあ、あながち指摘は的を外してはいないのですが、お互い様ではないかと。

 ひとつだけ、この「福祉多元主義」について思うところを述べると、相互補完的に組み合わせるのは誰か、果たして個々の市民自身が、自分の知識・意識でそうした困難な営み、取り組みを実践・実行できるのか、もし不可能ならば、だれがその役割を担うのか。
 大きな疑問、少なくない不安を持つのです。
 ただしそれは、ベーシックアセットについて感じること、考えることと同一です。

 この節の意図したことをまとめると、この文章になります。

「新しい生活困難層」のように複合的困難を抱えた人々を、包括的相談支援を含めた最適なサービスと所得保障で、オーダーメード型の就労や多様な居場所につないでいく、こうした社会的投資こそ新たな社会民主主義に不可欠となろう。


 理想論、新たな困難提示説として、敢えて紹介しました。

ベーシックアセットという構想を考えてみる

 さて、主題・本題に戻って。
 一応既に
ベーシックアセットとは?:ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論-2(2021/9/4)
で、アセット、コモン、コモンズ、そしてベーシックアセットとは何かについて述べましたが、正直、しっかりと理解できているとは自信をもっていうことはできません。
 なので、一部重複しますが、本項から、それらを抽出し、メモ書きしてみます・

・ベーシックアセットは、カリフォルニア州バロアルトのシンクタンク未来研究所(IFT)やフィンランドのシンクタンク、デモス・ヘルシンキなどが提起する考え方
・普遍的な給付対象となるのは、「有益で価値のある物や人」を総称する「アセット」。
・私的アセット、公共(行政)アセット、コモンズ(またはオープンなアセット)のアセットがある。
・この3つの領域にまたがって、資本、インフラ、空間、自然環境、データ、コミュニティ、権力の8つのアセットがある。

 そうした基本をベースに、こう宮本氏は自身の考えを客観的に述べています。

 コモンズのアセットを共有していくためには、旧来の再分配の枠には収まらない諸施策の併用が必要であり、例えば、福祉政策と環境政策、住宅政策、情報通信政策などとのリンケージのように。
 結果として、具体的な中身は多様になり、その分曖昧さも増してしまう面がある。

 このことから、以下の但し書きが加えられることになります。

 ユニバーサル・ベーシックアセットは、単一の手段というより、未来の経済政策パラダイムに向けた一個のメタファーであり、問題発見の方向性として理解されるべき、と。(デモス・ヘルシンキのレポートから)


ベーシックアセットの射程の長さと「普遍性」「複合性」「最適性」

 自ら、ベーシックアセットの様々な側面での難しさを認識はし、「射程の長い構想」とし、福祉政策の枠内で取り上げ、その重要性を「普遍性」「複合性」「最適性」 から考えてはいます。

「普遍性」をキーワードやスローガンに据えることの危うさ

 誰もが社会参加を実現できる条件として予め制度として保障されているアセット。
 故に、ベーシックアセットは、普遍主義的ビジョンとして、その「普遍性」を特徴としています。
 普遍性そのものは、特定の対象範囲内で意味するのが普通・普遍であり、その特定の範囲内での普遍性が全員に共通・共有化されていることも条件になります。
 しかし、得てして、普遍性の捉え方自体や普遍の対象そのものが、共通・共有化されずに独り歩きして用いられることが多いのです。
 分かりきったこと、という独断・一人よがりは往々にしてある。
「普遍性」や「普遍的である」とキーワードやスローガンは、イージーに用いてはならないと思っています。
(これは、ベーシックインカムでも、ベーシックサービスにおいても同様です。)

 ただし、この構想が、「事後的補償から事前的予防へ」という社会的投資論の構想と重なるという指摘には賛同しますが、「予防」というよりも「備え」とした方が適切と考えています。
 なお、これが、再分配から「当初分配(predistribution)」への転換を意味するということについても同意します。

 もう一つ注釈が添えられていました。

 BIやBSは制度としての普遍主義だが、ベーシックアセットは、レジーム(体制)としての普遍主義であると。
 誰もが必要なときに、いずれかのアセットを活用して社会参加を実現できるという点で、普遍的であり、大事なことは、アセットのパッケージを受けとる集団と受け取らない集団が二極化しないということである。


 少々理屈っぽいことを申し上げると、「社会参加」という抽象的・情緒的表現が意味すること・範囲の問題がひとつ。
 多様なアセットにおいては、当然それらのどれかを利用しない、必要としない人びと、あるいはそれらを集約するとグループは、必ず存在するであろうということも。
 多種多様なアセットの内、何かは受け取るに違いない、となれば二極化という表現はあたらないかもしれませんが、個別アセットをみれば、利用・受け取りの有無の二極化は必然です。
 そしてここで、それらが社会参加とどう関わるのか。
 やはり普遍性議論を深めること、進めることは、普遍的に困難です。


 

「複合性」が「最適性」をより困難にする

 ここで用いている「複合性」は、現金給付とサービス給付のどちらかか、双方かというレベルの複合性に過ぎません。
 そして、サービス給付の種類が、本書が課題とした貧困・介護・育児などの領域に見るように多様であることからの複合性。
 社会保障・福祉の領域はそれ以外に、医療・年金・障害者福祉、広義には教育も加わり、労働政策との関連で失業・雇用にも及びます。
 この書の課題の範囲どころではない、複合性・多様性が必然です。
 ショッピングセンターでのワンストップショッピングのように、果たして、個々人のニーズに応じたベーシックアセットの提供が、最適にできるか。
 それを可能にするベーシックアセットは、AIをもってすればシステム化が可能というのでしょうか。

「最適性」が意味する、個別対応の「多様性」と「複雑性」が、運用と組織機構の在り方を困難にする


 個々人対象は、当然、家族・世帯を巻き込んでの問題に複合化・多様化します。
 複数のアセット、コモンズを並行して必要とするのも当然のこと。
 ベーシックサービスの提供自体を困難なことと批判的に見ている私には、より多様なアセットの提供も加えたベーシックアセットにおける「最適性」の追求は、ユートピア論的ベーシックインカム提案とほぼ同次元、同レベルの事のように思えてなりません。
(参考)
リトガー・ブレグマンの「隷属なき道」、その道標(2021/9/2)
からスタートし
過去最大の繁栄の中の最大の不幸とユートピア:リトガー・ブレグマンの『隷属なき道』ー2(2021/9/6)
20世紀アメリカでベーシックインカムが実現するチャンスがあった!:リトガー・ブレグマンの『隷属なき道』ー3 (2021/9/10)
スピーナムランド制度捏造報告書が、誤った社会保障制度の歴史を作ってきた:リトガー・ブレグマンの『隷属なき道』ー4 (2021/9/12)

 人の数だけ、家族世帯の数だけの社会福祉・社会保障ニーズの多様性・複雑性に対応するための、ベーシックアセット運用管理の組織自体も実はベーシックアセットの、インフラとしてのコモンズの一つになるわけです。
 果たしてそれを可能にする組織とサービススタッフをどうやって確保し、養成し、運営と管理を行うのか。
 地方自治体行政機構でも困難な課題を、どうやって克服するのか。
 先述の、4つのセクターのベストミックスが、極めて困難な課題であるのと同様の課題が重くのしかかることでしょう。
 その解決のために有効な政治。
 それもまた新しい福祉国家創造のために超えなければならない「ベーシックペンション政治」として、学者・研究者の課題になるのでしょうか。

「広義性」、「広範囲性」と「抽象性」が、運用業務の質量とコストを際限なくする

 個々のベーシックアセットの管理運用形態についての記述には、当然本書は及ぶべくもありません。
 結局「政治化」した福祉課題は、主に過去の政治動向に応じた福祉領域ごとの歴史を辿ることと、その政治においての対立軸を描き、区分する作業で、一応それぞれの課題や限界を抽出はしました。
 しかし、これからどうすべき、という課題は、福祉課題に取り組む方法論としては、ベーシックアセットに期待をかけるにとどまっています。
 しかし、それも政治シュー、政治マター化して取り組む戦略・戦術を提示するはずもなく、これからの取組みのための理念・指針・構想としての本書、でお役御免です。

 ベーシックインカムでもベーシックサービスでも最大の課題である財源問題についても、ベーシックアセットのシステム構築に必要な財源についての記述はありません。
 相変わらず、<税・社会保障一体化>政策がそのまま通用すると考えているのでしょうか。
 普遍的で、複合的で、最適性をめざすベーシックアセットにかかるコスト。
 現状では、私には想像不可能です。
 まったく考えていないこと、考えられないことも含めて、そうならば、やはり<例外状況の社会民主主義>からの脱却、真の社会民主主義による、ベーシックアセットと福祉国家の実現は、夢物語止まりになるでしょう。
 歴史学者や哲学者は、それで良いのかもしれませんが、社会科学分野の研究者はそうであってはまずいでしょう。

 ここまで少しばかり駆け足で、言い換えると端折って、ベーシックアセット論を俯瞰してきました。
 この外にも、紹介したい宮本氏の客観的で真摯な考察・評価分析もありますので、親サイト https://2050society.com で本書の総括を兼ねるブログの中で取り上げることにします。

 ベーシックインカム専門サイトで取り上げた、ベーシックペンション提案書『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』をもとにした< ベーシックアセット提案の宮本太郎氏のベーシックインカム論>シリーズの最後は、同書の最終章最終節の最後の以下の文章を紹介して終わることにします。

 本来は(本書で取り上げてきた)諸制度は、人々が必要とする最適な給付を実現し、日本の生活保障をベーシックアセットの福祉国家に近づける可能性をもっていた。
 その意味で、これまで積み重ねられてきた制度や政策を全否定してしまうのは間違っている。
 しかし、一連の諸制度の可能性は決して活かされてはいない
(略)
 私たちは介護保険制度や子ども・子育て支援新制度、あるいは生活困窮者自立支援制度などが、本来の趣旨に沿って発展していくように、こうした諸制度を選択し直し、新たな軌道に乗せていく必要があるのではないか。
 ベーシックアセットのビジョンや、こうしたビジョンと連携した準市場や地域密着型の社会的資本の構想は、そのための指針となるべきものなのである。

 
 これも時折り見かける「選び直す」という作業、あるいは、営み。
 結局、これも何が悪くて、何が間違ったかを曖昧にしたままに、何をどうすべきか、どうするのかの判断を先送りにする方法のように受け止めるのは、私だけでしょうか。
 まあ、元々「例外状況の」社会主義、「磁力としての」新自由主義、「日常的現実としての」保守主義、と時流や雰囲気や時の運的な要因で、政治的な対立軸を設定し、論じてきた宮本氏とその書。
 別に全否定する気持ちも必要もないのですが、本来の趣旨とやらが、適切であったかどうかは極めて疑わしかったのも事実でしょう。
 ならばここは、やはり選び直しではなく、「構築し直し」を選択するべきと思うのです。
 すなわち、ベーシックアセット提案も、より深く、広範に、総合的に、体系的に再考察し、他国の研究者や研究機関等の成果物に頼らずに、自ら表現すべきと考えるのです。
 日本の社会保障制度整備のための政府の各種専門会議や委員会に関わってきた専門家ならば一層そうあって頂きたいと願うものです。

社会保障制度としてのベーシック・ペンション、基本的人権としてのベーシック・ペンション


 当サイトが提案するベーシック・ペンションそのものが、社会的インフラ、すなわち、宮本氏がいうところのコモンズに包含される一種のアセットとなります。
 このアセット自体は、現金給付方式によるもの(但し、純粋に現金給付ではなく、専用デジタル通貨)ですが、その現金給付と関連して、他の社会保障制度や年金制度、労働制度などの改定・改革も同時に行うべきことしています。
 それらの制度は個別制度ごとに、そしてそれらを統合して総合的に地域包括ケアセンター機能が整備拡充され、運用管理することも謳っています。
 もちろん最大の課題である財源問題についても、もちろん問題を払拭できていないことも認識した上で、提示しています。
 それが、ベーシックアセットの一つのアセットとして、ベーシックペンションを認識でき、提案できる理由です。

(参考):ベーシック・ペンションの基礎知識としてのお奨め5記事

日本独自のベーシック・インカム、ベーシック・ペンションとは(2021/1/17)
諸説入り乱れるBI論の「財源の罠」から解き放つベーシック・ペンション:ベーシック・ペンション10のなぜ?-4、5(2021/1/23)
生活基礎年金法(ベーシック・ペンション法)前文(案)(2021/5/20)
生活基礎年金法(ベーシック・ペンション法)2021年第一次法案・試案(2021/3/2)
ベーシック・ペンションの年間給付額203兆1200億円:インフレリスク対策検討へ(2021/4/11)


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