コロナ禍で転倒した労働の価値論とベーシック・ペンションとの結びつき:ベーシック・ペンション実現へのヒント-5
少しずつ、よくなる社会に・・・
(日本独自のベーシックインカム)<ベーシック・ペンション実現への課題2022>シリーズ-5
当サイト提案の、日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金実現に向けて、さまざまな課題があります。
その視点で、種々の情報から改善・解決につながる、つなげることができると思われるもの、コト、情報を、都度取り上げ、日本独自のベーシックインカム、<ベーシック・ペンション実現への課題2022>シリーズとして、2月に以下の記事を投稿しました。
第1回:地方自治体プレミアム商品券、スマホ決済ポイント還元へ切り替え:ベーシック・ペンション実現へのヒント-1(2022/2/3)
第2回:日銀、CBDC中銀デジタル通貨発行に現実味:ベーシック・ペンション実現へのヒント-2(2022/2/5)
第3回:ベーシック・ペンション導入によるインフレリスクと対策を考える:ベーシック・ペンション実現へのヒント-3(2022/2/12)
第4回:中央銀行、民間銀行、金融システム大変革の時代のCBDCとJBPC:ベーシック・ペンション実現へのヒント-4(2022/2/14)
その後、
<2050年日本独自のベーシックインカムJBPC完全実現に向けての2022年提案>と題して、今年2022年におけるベーシック・ペンションの段階的導入案を、以下のように4回シリーズで同月中に提起しました。
第1回:ベーシック・ペンション法(生活基礎年金法)2022年版法案:2022年ベーシック・ペンション案-1(2022/2/16)
第2回:少子化・高齢化社会対策優先でベーシック・ペンション実現へ:2022年ベーシック・ペンション案-2(2022/2/17)
第3回:マイナポイントでベーシック・ペンション暫定支給時の管理運用方法と発行額:2022年ベーシック・ペンション案-3(2022/2/18)
第4回:困窮者生活保護制度から全国民生活保障制度ベーシック・ペンションへ:2022年ベーシック・ペンション案-4(2022/2/19)
そこで、今月3月は、上記の2つのシリーズをそれぞれ補完する形で、随時テーマを設定し、どちらかのシリーズの続編と位置づけて、投稿していくことにします。
今月初めての投稿は、別サイトに既に投稿したブログ
◆ ブルシット・ジョブとエッセンシャルワークをめぐる労働観論の意味とは?:<コロナ禍の思想>から考える-2(2022/2/11)
で取り上げた1月に日経でシリーズ化された<コロナ禍の思想>の中の、社会学者酒井隆史氏の小文を再度取り上げ、ベーシック・ペンションと重ね合わせて考えてみます。
(参考)
⇒ 転倒した労働の価値 社会学者・酒井隆史氏: 日本経済新聞 (nikkei.com)
先述のブログでは、酒井氏の小文をいくつかに区分しながら要点を整理しつつ、私の考えを付け加える形にして、以下のように展開しました。
1)ブルシット・ジョブとエセンシャルワークを問題化することにどれほどの意味があるか
2)ブルシット・ジョブはだれが創ったのか、なぜ生まれたのか
3)理解しにくい、ブルシット・ジョブとエッセンシャルワークの価値と評価の転倒
4)その労働観転倒の原因としての労働価値の数値化、価額化
5)本来生産性を求めることが不適切なケアワークの本質を明確に示すべき
6)社会を維持している労働の再評価に、資本主義は不適切なのか?
7)多くの価値の逸脱・転倒を、既存の理論、システムから離れて問い直す
8)「市場価値」中心の現代を捉え直すために、歴史が不可欠か
9)人は歴史に本当に学ぶことができるか、あるいは学ぶべきか
10)学者・研究者の役割とは
実は、酒井氏の小論は、初めはベーシック・ペンションに結びつける題材として用いる予定だったのですが、途中で方向転換。
コロナ禍を背景として、エセンシャルワークとブルシットジョブを比較する形での労働の価値観の見直しの必要性を提起する小論と位置づけて、「歴史に学ぶべき」という一般的な定型ワードに対するかねてからもつ疑問を提起。
加えてこうしたパターン化した学者・研究者の考え方に対する疑問も併せてまとめました。
しかし、消化不良というか、論点がぼけてしまったと反省し、やはり元の認識として、ベーシック・ペンションと労働観と結びつける作業をしておくべきと考えての本稿です。
ブルシット・ジョブとエセンシャル・ワークでの労働価値論のムリムダ
酒井氏の言うところの「労働価値の転倒」。
市場価値としての労働価値の転倒は、資本主義社会の当然の帰結として起きたことであり、市場原理の転換をもたらすもの。
そうとは断言できないでしょう。
コロナ禍では在宅ワークなどの新しい生活様式が生まれ、仕事の要否を検討する必要に迫られた。すると、実は何の役にも立たない、仕事のための仕事が多くあったことに気づかされた。手間のかかる書類作成、無意味な会議や部下の管理……。こうした仕事は「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」と呼ばれ、自分の仕事が不要だと自覚した人たちから共感の声が集まった。
ブルシット・ジョブの多くは、実は、突き詰めれば、ブルシット・プロダクツやブルシット・サービスを生産し、生みだし、提供するジョブとも共通性はある。
そこまでは、酒井氏論では突き詰めていませんが、私は、そう思っています。
一方、エッセンシャル・ワークのすべてが、ブルシット・ジョブとは異質の、ムダのない仕事・作業で成り立っているなどといえるはずもありません。
すなわち、労働の価値を判断する上で、資本主義社会が矛盾しているわけではなく、また共産主義・社会主義社会が適切な尺度や基準を持っているわけでもありません。
小論の冒頭にある以下のケインズの未来予測は、ベーシック・インカムを論じる場合に、よく引き合いに出される小咄です。
人間は労働からの解放を目指して産業と社会機構を発展させてきた。経済学者のケインズは、自由な市場原理に基づく経済成長や産業合理化、日進月歩の科学技術を根拠に「孫たちの経済的可能性」(1930年)を書いた。世界を成立させるのに不可欠な労働は減少し、週15時間働けば十分な時代が到来する、と予言した。
ところが、現実は異なる。
要は、労働が生み出す究極的な価値が、労働を不要にする、としたわけですが、加速した資本主義社会はもちろん、他の社会システムにおいても、労働価値は転倒も、転換もしていません。
コロナ禍では、ブルシット・ジョブとエッセンシャルワークの価値と評価の転倒した労働観が浮き彫りになった。
こうした転倒が起きたのは、近代以降、労働の価値を数値化したことが一つの原因だ。資本主義は爆発的な経済成長をもたらし、人々の生活を豊かにした。その過程で、商品を生産するなどの成長と結びつく労働だけが価値を認められる、市場の論理が作られた。
格差の拡大は、労働の価値の転倒・転換ではなく、資本の増殖とブルシット・プロダクトやブルシット・サービス市場の拡大がもたらした、資本・金融所得の膨張によりもたらされた側面があります。
その利潤・所得は、資本主義社会のみならず、国家資本主義社会においてももたらされています。
従い、実はベーシックインカムは、どんな国家体制においても用いることが可能で、有効な社会経済システムとしての制度になりうるのです。
酒井氏が提起する漠然とした価値観の転換・転倒が、望ましい労働価値のを保証するものでは決してないでしょう。
回りくどい内容になってしまいました。
再度、酒井氏の論述を拝借しながら、本稿を進めましょう。
エッセンシャル・ワークの本質と価値評価の困難さ
医療や介護に従事し「ケア階級」と呼ばれるエッセンシャルワーカーの存在も際だった。感染リスクと最前線で闘う彼らの仕事は社会の維持には欠かせない。だがその価値とは裏腹に、低賃金・重労働など労働条件が悲惨な場合も多い。
そこでの価値は、貨幣価値では表現尽くしきれないもの、ということになります。
しかし、日本の政治で行われている介護職や保育職への賃金補填は、市場価値を意識する性質と、それから切り離して公的な価値に補正する性質を併せ持ちます。
また比較する例として、公務員の労働価値は、市場価値なのか。
これに対する明快な解があるでしょうか。
公務員の仕事にブルシット・ジョブは皆無とは言い難いことは明らかでしょう。
そしてまた、公務員の仕事には、エセンシャル・ワークと呼ぶに相応しい、極めて適切な仕事が多いことも自明です。
ということで、酒井氏の小論は、さほど意味がないと読むこともできるのです。
ただ、以下の論述には、見るべきもの、読むべきものがあります。
経済の土台に生命がある! ゆえに、ベーシック・ペンション!
コロナ下では、利益にならない医療資源を削減し、経済を優先する政策も一部に見られた。だが、私たちはこの社会を本当に維持している労働とは何かを知ることができた。
経済なくして生命は成り立たないが、経済の土台に生命があることを忘れてはならない。ケア階級の人々をこの災禍の一時的な英雄にしないためにも資本主義とは異なる論理を立てて再評価することが求められている。
「この社会を本当に維持している労働とは何かを知ることができた」というのは偏りがすぎるでしょう。
しかし、「経済なくして生命は成り立たないが、経済の土台に生命があることを忘れてはならない」。
この一言に、この小論の価値があると受け止めています。
そして、その生命の保持のために、すべての人々に有効なのが「ベーシック・ペンション」です。
そしてベーシック・ペンションは、労働価値を単純に市場価値と置き換えることの不適切さや、エセンシャル・ワークやブルシット・ジョブとの価値付けの困難さに異を唱えて、最適解を求める作業を回避するものであることを示しておく必要があると思っています。
また蛇足ですが、「ケア階級の人々を(略)資本主義とは異なる論理を立てて再評価することが求められている。」というミッションにも、反対であることも申し添えておきたいと思います。
但し、ケア階級職務が公的なものと認識して再評価することはありうるかと思いますが、現実の公務員賃金が適切な評価で決定・形成されているかについては疑問が多く、結局は、最適な再評価基準を見出すことは難しいでしょう。
とすると、その価値再評価での賃金形成よりも、まずすべての人々に平等に支給する日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金を支給することで、コロナ禍のような不測の事態への備えとすることが可能になり、生きる上、働く上でのさまざまな場面における備えにも多様に、柔軟に対応できることになります。
過去に学ぶよりも、今と明日を的確に把握し、現実的な取り組みを
転倒が起きているのは労働観だけではない。政策より誰を選ぶかに躍起になる選挙や、本来の教育目的から逸脱した学校など、目的と手段の転倒は社会の隅々にまん延している。人間は本来、何を望んでいるのか。何を求めているのか。資本主義を含め、既存の理論やシステムから離れて問い直すことが必要だ。そのために、私たちは想像力を持っているのだから。
この観念論、感覚論は分からぬもないですが、想像性の乏しい人が、政治行政シーンに多いことが現実で、こういう訴えかけはほとんど意味をなしません。
市場価値を中心にした活動の影響が、不可逆な所にまで来たことに多くの人が気づき始めた、ということだろう。時間軸を広げ、全人類史に参照先を見いださねば、私たちは生き残れないのかもしれない。
そして、歴史に学ぶというパターナリズムも、これまで有効に機能してこなかったことも、しっかり確認しておくべきでしょう。
それよりも、絶対にとは言えませんが、少しはマシなのが、現実をしっかり認識し、現状の問題点が今後どのように進展・変化していくか、これからを予測・想定し、その複数のパターンに応じた方法・方策・方向を議論・整理して、取り組み、進捗を評価し、修正を重ねて、実行管理していく。
このマネジメントサイクルを、労働の在り方、労働の価値付けの見直し・改善と重ね合わせて行っていくことが望ましいと考えます。
しかし、こうした取り組みは、日常生活を安心して送ることができる保障された収入があって可能であり、一層ベーシック・ペンションの必要性、早期導入が認識され、図られる必要性が確認できるでしょう。
<参考>:ベーシック・ペンション案2022年版(再掲)
◆ ベーシック・ペンション法(生活基礎年金法)2022年版法案:2022年ベーシック・ペンション案-1(2022/2/16)
◆ 少子化・高齢化社会対策優先でベーシック・ペンション実現へ:2022年ベーシック・ペンション案-2(2022/2/17)
◆ マイナポイントでベーシック・ペンション暫定支給時の管理運用方法と発行額:2022年ベーシック・ペンション案-3(2022/2/18)
◆ 困窮者生活保護制度から全国民生活保障制度ベーシック・ペンションへ:2022年ベーシック・ペンション案-4(2022/2/19)
少しずつ、よくなる社会に・・・
コメント ( 1 )
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