志賀信夫氏「ベーシックインカムと自由」への対論(2020/11/13)
『ベーシックインカムを問いなおす: その現実と可能性』対論シリーズ-6
『ベーシックインカムを問いなおす その現実と可能性』(法律文化社・2019/10/20刊)
を用い、同書で問い直すべきとしているベーシックインカムについての各章を対象として、私が考え提起する日本型ベーシックインカム生活基礎年金制と突き合わせをするシリーズに取り組んでいます。
・第1回:今野晴貴氏「労働の視点から見たベーシックインカム論」への対論(2020/11/3)
・第2回:藤田孝典氏「貧困問題とベーシックインカム」への対論(2020/11/5)
・第3回:竹信三恵子氏「ベーシックインカムはジェンダー平等の切り札か」への対論(2020/11/7)
・第4回:井手英策氏「財政とベーシックインカム」への対論(2020/11/9)
・第5回:森 周子氏「ベーシックインカムと制度・政策」への対論(2020/11/11)
今回は、第6回目で、志賀信夫氏による<第10章 ベーシックインカムと自由>を題材にしての対論です。
志賀信夫氏の本論の視点
BIが現代日本の貧困問題に対する政策としてどのような貢献ができるのか、あるいはできないのかについて「自由」の視点から検討する。
というのが、当小論の問題意識とし
結論からいえば、BIは現時点では貧困問題に対する政策としては十分にその機能を果たすことはできない。
これは、BIという政策に内在する欠陥というよりも、他の政策群との関係性と社会政策を支持する社会運動の展開に依拠した判断である。
と小論開始早々断じています。
ここから志賀BS論が始まります。
「自由の格差と平等、貧困」で述べる「自由」の狭隘性
所得の平等は自由の格差と併存する、と言います。
では「自由の格差」が生じない状態とは、どういう状態をいうのだろうか。
というよりも、なぜ自由が平等でなければいけないのか、を示すべきでしょう。
筆者が言う平等とは、物質的・物理的なものに加え、能力・属性など属人的な範疇や社会環境なども含むのですが、「自由」もそれらの範疇すべてで平等を求めることなど不可能でしょう。
能力・属性・社会環境に平等を求めるのも、ムリなのは分かりきっているはず。
またそこまでの権利を要求すること自体、ムリがあります。
その論理でいくと、精神的・観念的な領域にも平等が求められることになるわけで、もうそうなると人間社会ではなく、ロボット社会のことになります。
まあそういう感覚を多少は大人の態度をもって認めるならば、感じる自由度の差という領域での話としてであり、「格差」というよりも「違い」と括った方が適切と思います。
なにかに拘束されることで発生し、感じる自由および不自由のレベルを数値化することは、相対的には可能かもしれませんが、すべてに関してそれを求めることは、まったくもって「ナンセンス」です。
自由と権利を求める主体とベーシックインカム論のムリ加減、不自然さ
私の意識においては、BIは、自由を得ることや権利を求める対象として必要と考えているわけではありません。
国との契約に基づき、国民・市民として付与される社会保障制度の内容の一つ、あり方として、支給されることが望ましく、かつ必要であるから、というものです。
過去の歴史も思想も哲学もほとんど関係ありません。
今の社会と個人の状況と、これから考えるべき将来を見通した上で、在ることが望ましく、有意義・有益と考えるからです。
ただそれを多くの方々に理解してもらい、制度として実現することが非常に困難であるという事実があります。
志賀氏のこの小論で、唯一正鵠を射ているのは、この指摘です。
(BIの)あり方を要求し維持させるだけの社会的力をもった主体が現時点の日本で形成されているだろうか。
(中略)
こうした普遍主義的システムとBIという組み合わせも、それを要求し維持しようという主体が形成されていない限り、上滑りした議論になる。
重要なのは、要求する主体なのである。
私がJBI日本型ベーシックインカム生活基礎年金制の提案において、必ず述べているのが、これを法律案としてまとめ上げ、立法府において取り上げられるまでのシナリオが必要ということです。
政治イシュー、政治マターにしない限り、実現することはありえないのです。
志賀氏の認識も同じと見ます。
しかし、せっかくここまで認識を持ちながら、以下のように結論づけてしまうことには甚だ疑問を持つのです。
その主体となりうる可能性をもつ人々は貧困の当事者のみならず、労働者全般(=労働者階級)であると主張したい。
そして、こう続けます。
保育、介護、医療、教育のなかには、現役労働者にとって、いますぐに利用する必要のないものが含まれているかもしれない。
それは、すぐに選択することのない自由の領域かもしれない。
だが、選択しない自由の領域が保障されていることで得られる生活上の安心感と将来の展望の広がりは、さらに別の自由の領域を保障することになる。
まあ、断定せず、可能性というにとどめていることで、反論の勢いは弱められますが。
この内容は、ベーシックサービスよりもベーシックインカムにより強く作用するものと言えるのではないでしょうか。
保育、介護、医療、教育など社会保障制度の領域での施策の改善・改定も伴ってのBIが導入されれることが理想であり、私はその方向で、種々考察と提案を続けてきています。
しかし、志賀氏による、「労働者階級による社会運動による実現」を条件と位置付け、結論付けるのはいかがなものか。
労働しない、労働できない立場・状況にある人も包摂した、すべての国民・住民に共通のものとすべきでしょう。
ここに、普遍主義的システムを掲げながら、みずから普遍性を限定化する過ちを犯しているのです。
もちろん、加えるべきは貧困にある人ではありません。
より自由を求める人も、夢の実現を目指す人も、所与の違い、差を受け入れつつ包摂されるべきです。
積極的差別是正行動というテーゼの曖昧さ・弱さも主体作りを後退させる
理論としてよりも、理屈を論じているかのような感じつつ読み進めてきました。
普遍主義的システムもBIも、そのメイン機能は社会正義の推進であって、不正義の是正はサブ機能なのである。
差別を発端とする貧困問題という側面から考えるとき、普遍主義的システムと同じくらい重要なアイデアは、「積極的差別行動」である。
と言います。
もうここまで来ると、主体作りにそんな用語が必要なの?と言いたくなります。
社会正義とか積極的差別行動とか・・・。
社会正義をかざすのなら、詐欺とか不正とか、あまたある不正義の撲滅に注力した方がよほど貢献度が高いです。
BIや普遍主義的システムにおけるサブ的不正義是正ではなく。
まあ元々は反資本主義に根ざす論派なので、やむを得ないことと理解しています。
しかし、井手氏のBS論は、そのようであってそのようではない。
資本主義を否定しているわけではなく、財政学者としてバランス感覚を基盤として論じ、提案し、主張しているといえるでしょうか。
最後にもう一度私の結論を述べると、そもそもBIもBSも自由の視点から論じることにムリがあるのです。
理由は、自由には、物質的自由、非物質的(精神的)自由があり、そのどちらにおいても絶対的基準を設定することが不可能なこと。
BIもBSも、その利用価値は、多様で、一元的に論じること、結論付けることもまた不可能であるためでもあります。
そういう意味では、普遍的なのです。
BS論者が言うところの普遍性自体、実は抽象的なコト、モノなのですから。
そして、志賀氏がいみじくも露呈している、現状のBI、BS共に不足・欠落している、それを主張し、実現する活動の主体の形成と方法論という最も困難な課題。
これをどうするかにおいては、過去の歴史や思想を引き合いに出して論じることにどれだけの意味があることか。
ここにも、種々の論者は、時に思いを寄せるべきと、重ねて申し上げたいと思います。
(参考)
◆ 日本型ベーシックインカム実現に思想家、哲学者、歴史家、学者は要らない。必要なのは(2020/10/19)
次回は、第Ⅲ部「ベーシックインカム論再考」佐々木隆治氏による<第11章 ベーシックインカムと資本主義システム>への対論です。
その後、先に行った井出論対論で申し上げた『未来の再建』における同氏の具体的なBS論についての対論を予定しています。
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本稿は、WEBサイト https://2050society.com 2020年11月13日投稿記事 2050society.com/?p=2105 を転載したものです。
当ベーシックインカム、ベーシック・ペンション専用サイト http://basicpension.jp は2021年1月1日に開設しました。
しかし、2020年から上記WEBサイトで、ベーシックインカムに関する考察と記事投稿を行っていました。
そこで、同年中のベーシックインカム及び同年12月から用い始めたベーシック・ペンションに関するすべての記事を、当サイトに、実際の投稿日扱いで、2023年3月から転載作業を開始。
数日間かけて、不要部分の削除を含め一部修正を加えて、転載と公開を行うこととしました。
なお、現記事中には相当数の画像を挿入していますが、当転載記事では、必要な資料画像のみそのまま活用し、他は削除しています。
原記事は、上記リンクから確認頂けます。
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