社会保障、財政システム改革、国家財政論に基づくBP論(2020~2021年未編集過去記事一括掲載)
保存していた、廃止したWebサイト投稿の過去記事を、整理修正しないまま、公開しました。
いずれ整理編集します。ご了承ください。
社会保障制度改革のための社会保障論を (2020年9月3日)
改革すべき社会保障制度、その背景と理由
当サイトのカテゴリーの多くは<社会保障制度>と関係している分野である。
当然、現状の社会保障制度に多くの問題を抱えるわが国において、個々の分野の課題の改善・改革が不可欠である。
例えば、常に財政面から問題の大きさを知ることになる、「医療保険」「介護保険」、世代間の不公平感と将来不安で問題視されている「年金」問題、などは、もうすっかり知られている。
また、ベーシックインカム制の導入について、その実現のために種々提起・提案することを、当サイトの目的の一つとしている。
そのベーシックインカム制を、社会保障制度の基軸として設定することを方針としている。
そのためには、個々の領域の制度のみを考えるのではなく、社会保障制度全体の中での当該制度の位置付けと他の関連する諸制度との調整・整合をしっかり行なわなければならない。
その基本認識のもと、2050年の望ましい社会保障制度体系を構築するために、以下の観点から「社会保障論」「社会保障制度論」をこれから当サイトで、メモし、展開していくことを考えている。
◆ 家族と社会保障
◆ 国家・自治体、地域社会と社会保障
◆ 社会保障体系と社会保障制度体系
◆ 憲法と社会保障各法
◆ 移民・外国人在留者と社会保障
◆ 社会保障と財政・財源
◆ 社会保障関連新書紹介
◆ 社会保障制度改革、目的と基本方針
社会保障制度の起点としての家族と世帯
社会保障制度を一つの視点で眺望すると、世帯と家族を対象とすることで始まると言える。
妊娠から死亡まで、ゆりかごから墓場までの生涯が対象となっている、非常に重要な社会経済システムというわけだ。
今年2020年1月下旬に、日経の『やさしい経済学』欄で、若林緑東北大学准教授 による「家族の変化と社会保障」という9回の連載が掲載された。
1.「世帯」が持つリスクシェア機能
2.結婚のメリットとデメリット
3.単身者と「老後の備え」
4.子どもが持つ経済的意義
5.子どもの貧困とライフサイクル
6.介護に伴う大きな負担
7.公的介護維持への条件は
8.「老後2000万円」のメッセージ
9.地域の支え合い 透明化を
これをヒントにして、
<家族と社会保障>の関係について、以下の6つのテーマで次回から考えていきたいと思う。
第1回:社会保障の単位としての世帯、核としての単身者
第2回:結婚と夫婦の社会保障
第3回:出産・子育てと社会保障
第4回:介護・老後と社会保障
第5回:家族と仕事と地域の社会保障
第6回:家族と社会保障関連保険
社会の望ましい持続・継続をも目的とする社会保障制度
ゆりかごから墓場までという生涯を対象とした、望ましい社会保障制度を整備構築すること、そしてより望ましい制度・システムにバージョンアップしていくことは、人が安心して生きていく上で不可欠な課題だ。
その活動は、ひとりの人間の一生のみを対象としたものではなく、当然その配偶者、子ども、孫、父母、祖父母など世帯を構成する家族のそれらを対象としている。
そして、その家族関係の継続・継承は、社会と社会活動の継承・継続も対象とし、目的としているものと言えよう。
その社会は、単一の社会ではなく、ひとりの人間、一つの世帯・家族が、多様に関わる複数の形態の社会である。
企業社会、地域社会、国家社会などを初め、目的をもって形成された、あるいは自然発生的に形成された種々の社会が存在する。
そのさまざまな社会活動に参加・参画する上で、何らかの社会保障制度が機能することが多い。
ある意味では、SDGs(持続可能な開発目標 Sustainable Development Goals)」として、社会保障制度を位置づけることも有効かもしれない。
あまりにも大き過ぎて、範囲が広過ぎて、手に余る。
かと言って、特定の一つの社会保障制度のみを取り出して課題とすると、必ず、関連する他の社会保障制度も含めて考える必要が生じる。
そこで取られる行動の多くは、改善改革の先送りか、一時的な、部分的な取り繕い、弥縫策でやり過ごすか、のどちらかだ。
それで、状況が良くなるのなら、あるいは将来の不安が解消されるのなら良いが、実際にはその逆ばかりだ。
同じ位置に立ち止まってはいられない。
かといって時間だけが経過しているが、なにも状況に変化はなく、むしろ悪くなっている。
そういう事態は、なんとか阻止したい。
さまざまな考察が、実際の行動変革を起こしうるように。
活動の組織化、持続化を考えての問題提起になれば、と思いを新たにしている。
「税と社会保障の一体改革」の欺瞞が求める政治改革と財政システム改革
2021年1月30日
前回
◆ 菅総理「生活保護がある」、麻生財務相「定額給付金再給付なし」発言が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/29)
と題して、自民党政治、自民党内閣の生活保護制度や特別定額給付金を巡る社会保障制度やそれと結びつけての財政健全化に対する認識の薄っぺらさを批判しました。
それはコロナという異常な状態における冷静さを欠いた発言、発想というものでは決してなく、本質的に、政治家としては当然のこと、人としてのあり方をも問われる認識であり、絶対に変わらない、変わることを期待できない、想定できないものです。
まあ、個人としてどうこう、というのはそこそこにして、前回を受けて「政治改革と財政システム改革」という視点で、現在を再考し、これからのあり方を考えることにします。
その課題は、前回触れた自民政権がこだわる「財政規律」と密接に関連する「税と社会保障の一体改革」という方針です。
「税と社会保障の一体改革」の意味するもの
若い世代の人口がどんどん減少していく少子化社会と一体となって進んでいく超高齢化社会。
そこで問題になっているのは、現役世代の負担の大きさと彼らが高齢者になった時に受けることができると予想される給付やメリットの低さ・不透明さ等による不安と不満。
これを解消する方策と政府と官僚が考えたのが「税と社会保障の一体改革」です。
そのために採用する政策は、
・極力高齢者にできるだけ長く働いてもらう。
・年金受給開始時期を遅くする。
・健康保険、後期高齢者保険、介護保険等の自己負担額を引き上げる。
これを目標とし、現実にその路線を、名が通った御用学者も起用して、着々と走っているのです。
低成長経済社会における「税と社会保障の一体化」とは
高齢者をターゲットにした上記の政策は、経済成長が持続していれば、所得が上がり、税収が増えることで、取る必要はありません。
しかし、長引く低成長経済のもとでは、増えない税収を前提として財政支出を抑える方向に導かざるを得ないことに、一般的にはなります。
その固定観念からは、「税と社会保障の一体改革」というもっともらしい理由付けが、当たり前、これしかない、的に方針として示されます。
これが政治家や官僚にとって、仕事をせずに楽ができる方策です。
財政規律を守るためには、税収と年金や医療保険費用、預かり保険料などの支出との均衡が取れているようにします。
要するに、入が少なければ、出も絞る。
自動制御装置化するわけです。
ついでに、減る入り分の一部でも取り戻すように、高齢者の負担を増やそうというわけです。
高齢者にもっと働くことを要求するのと同様、同時に、女性非正規雇用も増やし、税収や保険料の維持を図ろうともしています。
簡単すぎて、ミエミエなのですが、あたかもこれが正義・公平公正なことと素知らぬ顔をして制度化します。
政治・行政の仕事は、自分たちの収入を減らすことなく、こういう仕掛け・悪巧みを生み出し、法律にしていくこと。
その方策として、「税と社会保障の一体改革」や「財政健全化」という用語を、すべての国民に刷り込んで、あたかも国のために仕事をしているように見せかけているのです。
前安倍内閣時の「全世代型社会保障制度改革」も同根
これは、安倍内閣当時に用いた「全世代型社会保障制度改革」も同じ意味・意図を持つものでした。
・高齢者により長く働くことを求め、社会保険料負担を求める
・高齢者の医療・介護自己負担分を引き上げる
・高齢者の年金受給額を、手を変え品を変え、抑制する方策を組み入れる
・それにより現役世代の負担を抑制し、公平感を印象付けようとする
こんな小手先の方法を取るだけで、とてもとても「改革」などと呼べるような仕事はしていないのです。
大転換すべき国家財政システムとそのために必須の政治改革
そして前回同様、財政システムの大転換必須という結論と、その実施・実現のやめの現状の政治システムと政治体制の改革が不可欠という結論に導かれます。
財政システム転換は、税収や保険料収入だけに頼らない国家財政システムを構築することで。
政治改革は、現状の自民党政治を打破することが前提となりますが、仮にそうなったとしても、財政システム大転換がなされる保証はありません。
税収や保険料収入だけに頼らない国家財政システムをリアルに考察・構築できる政党が政権を取ることが条件となります。
税や保険料収入に頼らないシステムのモデルは、日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金制で提案しています。
まずこの財源フリーで、年間100数十兆円を全国民に無条件で、平等に、デジタル通貨で支給するシステムを構築できれば、これまで金科玉条的に掲げてきた「税と社会保障の一体改革」も「財政規律」を守る課題も、まったく装いを新たにし、一段高い次元での、異質な課題に格上げされることになるでしょう。
もちろんその時の社会は、貧困を始めとしたさまざまな社会問題の改善・解決が、順調に進められていることが想像できます。
その一部の工程をも組み入れているのがベーシック・ペンションでもあります。
現状の野党に、それだけの革新的な政策と国民に確信をもたせることができる政策提案と説明ができるか。
現状では、期待できないことも、前回述べました。
そうした認識・前提で、2050年に向けての最初の10年間をいかに使うか。
変わらぬ社会をどう変えるか。
政治の役割なのですが、コロナ禍にある今、われわれすべてが、今と明日が繰り返されていく日々に、考え、可能な行動を、と思います。
文中にある「ベーシック・ペンション」については、当サイトでも間接的に触れていきますが、専用のWEBサイトがありますので、こちらをご覧ください。
https://basicpension.jp
またFacebookにアカウントをお持ちでしたら、こちらにご参加頂きたく、同グループページからご連絡ください。
お待ちしています。
⇒「ベーシック・ペンション、日本独自のBI実現をめざすクラウド・ミーティング」
公助・共助、公的資金・国家財政から考える政治改革と財政システム改革
2021年2月2日
ここまで「政治改革と財政システム改革」シリーズとして、以下考えてきました。
◆ 菅総理「生活保護がある」、麻生財務相「定額給付金再給付なし」発言が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/29)
◆ 「税と社会保障の一体改革」の欺瞞が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/30)
今回は、その3回目。
公助・共助・自助と関連させて、考えてみることにします。
公助・共助・自助の誤った首相・自民党認識と財政システムとの関係
ここ数年での流行語とまではいかないが、何かにつけて用いられ、話題にもなっている「公助・共助・自助」という用語セット。
「助」が入るので、だれが、だれを「助」するのかを表す言葉だろう。
「公助」とは、「公」が、個人や企業、すなわち「民」を助ける、ということだろう。
「公」が「公」を助けることもある。
国が、地方自治体を助ける。
でもこれは、ある意味、国の代わりにさまざまな公的事業・公的サービスを行って自治体向けなので、助けるというよりも、本来、委託する、お願いする筋のことだろう。
意外に判然としないのが「共助」だ。
どうも政治家や官僚の解釈では、地域や住民が「共」の主体と考えているフシがある。
多分「民間企業」も「共」とは想定していないのではないか、多分。
なぜなら、「官民」一体という時の「民」はほぼ「民間企業」を指すと考えられるから。
まあ、都合が良い時には、民間企業も「共」にともに組み入れてしまうだろうが。
「自助」は「自分」の「自」、個人を意味する「自」だ。
もちろん「自宅」の「自」も含むだろうから、「世帯」一つ一つも「自」に括るだろう。
さて問題は「公」である。
国家予算財源「公」的資金は、本来「共」から委託された資金
前回テーマとした「税と社会保障の一体改革」や、守るべき「財政規律」という場合の「財政」は、ほとんどその財源は、国民や企業が負担した「税金」である。
国債も財源とするが、この場合は、国債を購入する人や法人、時に外国の人や企業や場合によっては国にも出どころが及ぶ。
それらが持つ「富」「資金」が元手である。
しかしこの「国債」には利息を付けた上で買い戻す、召喚する。
原則としてこの買い戻す資金は、やはり税収からである。
ということは、政府予算、地方自治体予算の財源は、国や自治体がみずからの力、事業などで生み出したものではないわけだ。
しかしこれを「公的資金」「国のお金」「自治体のお金」として予算計上し、使う。
ゆえに実態は、「共」の努力が集約、集金された資金であり、そのお金の使い方の決定・配分方法を内閣と立法府に委嘱したと考えるべきなのだ。
だから大事に、有効に使おう、という考え方を、内閣・行政、そして立法・国会は基本とすべきなのだ。
ゆえに、既に逃げてしまった前安倍内閣の桜を見る会の私物化やモリカケ問題など、自己・自党に資金的貢献を期待できる企業や団体等への利益誘導型の公的資金投入は、あってはならないことなのだ。
それをあたかも、自分の金であるかのようにいつも話している麻生財務省相などは、その任にない象徴的国会議員なのだ。
そんな人間を国会議員として多選して送り出している選挙区住民は、何か特別いいこと、恩恵を被っているゆえと勘ぐられても仕方ないことを理解できるだろうか。
麻生に限らず、そんな疑問を抱かせる事件・問題を起こす議員が、絶えることなく存在する「公」の人々。
彼らは、「公」のため「共」のためではなく、すべて「自助」のために国会議員として活動している輩なのだ。
彼らの報酬は、すべて自助努力の結果として拠出した「共」的資金から支給されたものにも拘らずだ。
そうした事実・リアルを理解・認識せず、自助ファーストを喧伝する首相初め内閣閣僚と自公民政権政党国会議員に、国家予算の配分の権限を与えることなど本来あってはならないのだ。
しかし、そうした政治システムが根をしっかり降ろした日本社会。
その政治システムに乗って管理・運営されている国家財政システム。
それを改め、望ましい財政システムを構築するためには、やはり現状の政治体制、政治システムを改革するしかない。
財政システム改革は、その政治体制を変革することでしか着手・実現できないのである。
政治体制の変革は、政権政党が代わり、内閣が代わり、行政を変えるという連鎖を引き起こす。
従い、言うまでもないが、どう改革するか、政権政党が、適切な方針・方策を持っており、その政党が国民に支持され、国会議員を多数選出し、必要な法案を提出し、可決成立する議会制民主主義に基づく手順を踏む。
そうした役割・責任を担うことができる政党が果たして現在存在するのか。
少なくとも、そうした方針・方策、そしてスケジュールを提示できる政党は存在しない。
日銀発行専用デジタル通貨発行・支給による真の公助資金、ベーシック・ペンション導入を方針軸とする女性新党結成への期待
残念ながら、ある意味ゼロからのスタートなのだ。
甘い期待・認識は、スタートの時期・時点を見誤らせる。
そのゼロの起点で考えるのが、女性新党であり、政策の軸が、日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金制度の導入が適切と考えている。
ベーシック・ペンションとは何か、その財源はどうするのか、については、こちらで確認ください。⇒ 日本独自のベーシック・インカム、ベーシック・ペンションとは(2021/1/18)
⇒ 諸説入り乱れるBI論の「財源の罠」から解き放つベーシック・ペンション:ベーシック・ペンション10のなぜ?-4、5(2021/1/23)
こちらへのご参加をお待ちしています。
⇒ ベーシック・ペンション、日本独自のBI実現をめざすクラウド・ミーティング
もちろん、女性新党の結成自体、甘過ぎる期待ではある。
しかし、現状の既成野党に、この方針・方策を十分理解し、理論武装した上で自党に組み入れ、国民を十分理解納得させることができるか。
万一それが可能ならば、そこに委ねることが選択肢として浮上する。
10年がかりの変革への取り組み。
そのくらいの覚悟とシナリオ、スケジュールが必須であろう。
10年間で準備。
次の10年で、ベーシック・ペンションの順次導入実現。
2040年までにその目標が関連する社会保障制度・福祉制度も実現していることで、理想に近い社会システムが見えてくる。
こちらへの女性の皆さんのご参加をお待ちしています。
⇒ ネットサロン・平和と社会保障と民主主義を考える女性の会
国家プロジェクト30年計画を新政治体制の命題とし、世代を継承しての取り組みを
その他の国家的プエオジェクトも、10年スパン、3サイクルの2050年までのビジョンと計画を策定し、着手の基盤創りが最初の10年で2030年までの第1フェーズ。
種々の課題の整理と各課題分野の10年スパンでの計画概要もいずれ提起していきたい。
ゼロカーボン、再生可能エネルギーによる完全自給自足水素国家社会が完成するのは2050年とイメージしている。
そういう構想力と実行責任を自覚を持つことができる政党およびリーダー。
コロナの経験で、その意識・使命感をもつ人材が出てくるか、政党が覚醒するか、あるいは新しい政党の芽吹きがあるか。
今年の動向を注視したい。
引き続き、次回以降、「公共」「公務」「公務員」等の視点で考えてみたいと思っています。
2030年社会保障制度改革の起点とすべき社会保障制度基本方針大転換による政治改革と財政システム改革 2021年2月4日
「政治改革と財政システム改革」シリーズとして、以下考えてきています。
◆ 菅総理「生活保護がある」、麻生財務相「定額給付金再給付なし」発言が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/29)
◆ 「税と社会保障の一体改革」の欺瞞が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/30)
◆ 公助・共助、公的資金・国家財政から考える政治改革と財政システム改革(2021/2/2)
この2回目で、
「税と社会保障の一体化」は欺瞞である、と述べました。
しかし実は、この欺瞞は、国、政府が規定している社会保障制度の基本方針としているもので、「この方針に固執し、管理方法を欺瞞化している」とトーンを落として主張すべきだったと反省しています。
平成24年版「厚生労働白書」に示された社会保障制度基本方針
別サイトhttp://basicpension.jp に投稿した
◆ リフレ派原田泰氏2015年提案ベーシックインカム給付額と財源試算:月額7万円、年間総額96兆3千億円(2021/2/3)
の参考図書とした『ベーシック・インカム 国家は貧困問題を解決できるか』
の中で示されたことで知った「平成24年版厚生労働白書」を確認してみました。
⇒ 平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える-
今回は、そこに書かれていた「日本の社会保障の仕組み」から重要な部分を引用・転載し、「政治改革と財政システム改革」の必要性を考えてみることにします。
日本の社会保障の仕組み:平成24年版「厚生労働白書」より
以下、同白書の記述の流れに沿って、概要を見、考えるところを付け加えます。
憲法第25条における生存権が起点
日本の社会保障制度は、第二次世界大戦前より形成されてきたが、社会保障の意義について国民的に議論され、政策が本格的に発展されるようになったのは、第二次世界大戦後である。
1947(昭和 22)年に施行された日本国憲法第 25条において、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という、いわゆる「生存権」が規定され、戦後の日本が福祉国家の建設を目指すことを内外に宣言してからである。
生存権については、ベーシック・ペンション導入の基本としての憲法に規定する「基本的人権」に包含するものとして、最も重要かつ基盤になるものと位置付け・価値付けています。
⇒ ◆ 日本独自のベーシック・インカム、ベーシック・ペンションとは(2021/1/18)
⇒ ◆ なぜ国がベーシック・ペンションを支給するのか?憲法の基本的人権を保障・実現するため:ベーシック・ペンション10のなぜ?-1(2021/1/20)
社会保障制度審議会による1950年「社会保障制度に関する勧告」
この憲法第 25条を受けて、社会保障の政策のみならず、理論的な研究にまで影響を及ぼす形で社会保障の概念を明示したのが、内閣総理大臣の諮問機関として 1949(昭和24)年に設置された社会保障制度審議会による 1950(昭和 25)年の「社会保障制度に関する勧告」である。
この勧告では、社会保障制度を次のように規定している。
「社会保障制度とは、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業多子その他困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担において経済保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては、国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上を図り、もってすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることをいうのである。」
「このような生活保障の責任は国家にある。国家はこれに対する綜合的企画をたて、これを政府及び公共団体を通じて民主的能率的に実施しなければならない。(中略)他方国民もまたこれに応じ、社会連帯の精神に立って、それぞれその能力に応じてこの制度の維持と運用に必要な社会的義務を果さなければならない。」
日本の社会保障制度の体系は、上記の考え方を基本として発展してきたが、上記勧告のような社会保障の捉え方は、ヨーロッパ諸国におけるそれよりも広く、現在の日本の社会保障制度の特徴の一端を垣間見ることができる。
こう述べていますが、現在現実には、欧州諸国の福祉制度などに比較すると、基盤とする法制や税制などの違いもあるが、多々遅れを取っていることは強く認識すべきでしょう。
社会保障の目的:同白書より
近年では、社会保障は、一般に、
「国民の生活の安定が損なわれた場合に、国民にすこやかで安心できる生活を保障することを目的として、公的責任で生活を支える給付を行うもの」
(社会保障制度審議会<社会保障将来像委員会第 1次報告>(1993(平成 5)年))とされている。
具体的には、傷病や失業、労働災害、退職などで生活が不安定になった時に、健康保険や年金、社会福祉制度など法律に基づく公的な仕組みを活用して、健やかで安心な生活を保障することである。
この文言の中で気になるのは、「公的責任」と「公的な仕組み」という2つの用語およびその表現です。
そしてその行使は、「国民の生活の安定が損なわれた場合」「生活が不安定になった時」という条件が付けられています。
従い、その必要性が起きた時に、適用する基準、申込み・審査、執行時期などが、適切・的確に運用されるか否かが課題となります。
その作業・事業自体が、大きな問題を孕んでいることは、生活保護の運用や、母子世帯・父子世帯の貧困、非正規雇用者の処遇その他、多種多様で複合的な問題があり、貧困や格差拡大を招く要因ともなっていることは言うまでもないでしょう。
そして、以下の3つの機能自体が、その社会問題を増幅する要因ともなっているのです。
社会保障の3つの機能:同白書より
「平成24年版厚生労働白書」では、社会保障の主な機能として
1.生活安定・向上機能
2.所得再分配機能
3.経済安定機能
と、相互に重なり合う、この3つを挙げています。
以下、各機能ごとにその説明を紹介し、私の感じたところを加えます。
生活の安定を図り、安心をもたらす「生活安定・向上機能」
社会保障の「生活安定・向上機能」は、人生のリスクに対応し、国民生活の安定を実現するものである
例えば、
・病気や負傷の場合には、医療保険により負担可能な程度の自己負担で必要な医療を受けることができる。
・現役引退後の高齢期には、老齢年金や介護保険により安定した生活を送ることができる。
・雇用・労働政策においては、失業した場合には、雇用保険により失業等給付が受給でき、生活の安定が図られるほか、業務上の傷病等を負った場合には、労災保険により、自己負担なしで受診できる。
・職業と家庭の両立支援策等は、子育てや家族の介護が必要な人々が就業を継続することに寄与することで、その生活を保障し安心をもたらしている。
このような社会保障の機能により、私たちは社会生活を営んでいく上での危険(リスク)を恐れず、日常生活を送ることができるとともに、人それぞれの様々な目標に挑むことができ、それがひいては社会全体の活力につながっていく。
逆に言えば、社会保障が不安定となれば、将来の生活への不安感から、例えば、必要以上に貯蓄をするために消費を抑制する等の行動をとることによって経済に悪影響が及ぼされるなど、社会の活力が低下するおそれがある。
ここで気になる表現を挙げると「人それぞれの様々な目標に挑むことができ、それがひいては社会全体の活力につながっていく。」と「社会保障が不安定となれば、将来の生活への不安感から」という部分です。
前者は、「その目的を果たすための社会保障のあり方」に、方針を切り替えることが望ましい、またそうすべき、と考えたいところです。
後者は、「不安定」を「不十分」「不平等」「不公平」と拡大して捉え、「不安感」に「不満感」「不公平感」を加えるべきでしょう。
なぜなら、前者は、後者を現実する現役世代にとって、現状の社会保障制度の不足を補うだけにとどまらず、将来に希望を持つことができるレベルの社会保障制度を構築すべきという思いからです。
それが、心底からの、本当の意味での「安心をもたらす」ものだからです。
所得を個人や世帯の間で移転させることにより、国民の生活の安定を図る「所得再分配機能」
社会保障の「所得再分配機能」は、社会全体で、低所得者の生活を支えるものである。
具体的には、異なる所得階層間で、高所得層から資金を調達して、低所得層へその資金を移転したり、稼得能力のある人々から稼得能力のなくなった人々に所得を移転したりすることが挙げられる。
例えば、
・生活保護制度は、税を財源にした「所得のより多い人」から「所得の少ない人」への再分配が行われている。
・公的年金制度は保険料を主要財源にした、現役世代から高齢世代への世代間の所得再分配とみることができる。
・所得再分配には、現金給付だけでなく、医療サービスや保育等の現物給付による方法もある。
このような現物給付による再分配は、報酬に比例した保険料額の設定など支払能力(所得水準)に応じた負担を求める一方、必要に応じた給付を行うものであり、これにより、所得の多寡にかかわらず、生活を支える基本的な社会サービスに国民が平等にアクセスできるようになっている。
ここでのキーワードは、「社会全体で」と「現役世代から高齢世代への世代間の」としてみましょう。
この「社会」とは、何を意味するのか、です。
どうやら、すべての個人が集まる「社会」、所属する「社会」、すなわち日本という「国家社会」を意味するのでは、と解釈します。
個人の全集合体である「国」が、国民に対して所得再分配を、国民になり代わって行う。
そう理解します。
国政の責任を負う政党が、権力のもとに裁量的・恣意的に行うものではない、ということであり、「平等にアクセスできる」ことが条件というわけです。
また「現役世代から高齢世代への世代間」の所得再分配が、果たして公平性・公正性を維持できるのか。
ここでは、現役世代が高齢になった時の社会保障の適用が、自身が支えてきた高齢世代同様に行われる保障がないことへの不安と不満が増幅している現実を考えれば、綺麗事に過ぎないかのように思われるのですが、どうでしょうか?
また一方で、高負担する富裕層の一部には、税負担を快く思わない人もやはり存在することも、考えておく必要があるでしょう。
景気変動を緩和し、経済成長を支えていく「経済安定機能」
社会保障の「経済安定機能」は、経済変動の国民生活への影響を緩和し、経済成長を支える機能である。
例えば、
・雇用保険制度は、失業中の家計収入を下支えする効果に加え、マクロ経済的には個人消費の減少による景気の落ち込みを抑制する効果(スタビライザー機能)がある。
・公的年金制度のように、経済不況期においても継続的に一定の額の現金が支給される制度は、高齢者等の生活を安定させるだけでなく、消費活動の下支えを通じて経済社会の安定に寄与している。
・雇用保険制度に限らず雇用・労働政策全般についても、前述の生活安定・向上の機能を有するのみならず、国民に、困った時には支援を受けられるという安心をもたらすことによって、個人消費の動向を左右する消費者マインドを過度に萎縮させないという経済安定の機能があるといえる。
確かに、社会保障制度には、その機能はあります。
しかし、それが一番の目的ではないことは明らかです。
別の視点で考えると、経済的側面を重視するがゆえに、社会保障制度を抑制させる政策を奨励させることになっている状況もあります。
例えば、非正規雇用(比率・数)の増大です。
企業には、社会保険負担を抑制する効果を持たせ、非正規雇用者には、生活の不安定さを強めることになっています。
しかし、提案しているベーシック・ペンション導入時の経済的視点での目的および効果は、自給自足可能な国内循環経済システムを構築することにもあります。
単に「安定」機能をもつものではなく、「安全保障」をも包含した政策・制度であるという違いがあることを付け加えておきたいと思います。
⇒ 日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金専門WEBサイト
⇒ http://basicpension.jp
真面目に議論すればするほど身動きが取れなくなる現状の社会保障制度。世代間抗争は、より激烈に
なぜ、平成24年版「厚生労働白書」に書き記された「日本の社会保障」の目的・機能を持ち出したか。
その理由は、言うまでもなく、その基本方針に則り、目標とした社会保障制度が、その理念通りに機能していないこと、そのままでは、一層問題が拡大し、多様化・多層化・複合化するばかりで、安定も安心も、望ましい経済も実現できないからです。
その手法である「所得再分配」方式では、社会保障のための支出はゼロサム・ゲームであり、しかも、少子化・人口減少社会の進行で、保険料や税の収入も減少を余儀なくされるからです。
唯一、税収増、保険料収入増を実現するために有効なのは、経済成長に基づく所得増が持続的にある場合です。
しかし、今日の日経1面にあったように、社会保険料の負担が増え続け(一定のところでストップする法律はありますが)、それでなくても賃金が上がっていない状況ですから、先述したように、負担感・不公平感も拡大するばかりです。
一方高齢者は、より長く働くことを要請(強制?)され、年金受給開始年齢を引き上げられ、健康保険・介護保険の自己負担比率も高くされ、受け取る年金額も少しずつ減っていきます。
全世代型社会保障制度というカンバンの実態は、あちらを立てればこちらが立たず、のトレードオフの関係。
言い換えると、世代間抗争の拡大・激化でもあります。
社会保障制度の目的・機能のイノベーションを
もうそろそろ、限界が見えている、限界の中で小手先の対策でやりくりしている社会保障制度の目的・機能を、新しいものに変革しましょう。
その方法については、前回の以下の記事で提起しています。
◆ 公助・共助、公的資金・国家財政から考える政治改革と財政システム改革(2021/2/2)
その実現のためには、その変革政策を実現可能なものと認識できる内容にまとめること。
その政策を掲げる政党があること。
その政策実現を公約として衆議院議員選挙で多数の候補者を出し、当選させること。
自ら政権を担当するか、政権政党の政策に強い影響を与えることができる勢力となること。
一言でいうと、政治改革が必要です。
そこでようやく、社会保障制度・政策の改革が可能になるわけです。
なぜ2030年の社会保障制度改革なのか
冒頭の見出しに「2030年社会保障制度改革」と書きました。
その理由は、先述した、社会保障制度改革の提案・合意形成と政治改革には、時間がかかるからです。
特に、所得再分配、国民の税金や保険料負担に頼らない、国が発行するベーシック・ペンション独自通貨の発行・管理システムの理解を得ることが難関です。
そして、これを政策とする信頼できる政党が形成されることにもかなりの時間・日数・年数を要するでしょう。
10年間の長期スケジュールを立てる環境にするだけでも数年掛かるでしょう。
ベーシック・ペンション導入は、社会システムのイノベーションです。
そしてまた、経済視点を組み入れれば、社会経済システムのイノベーションを実現することも意味します。
コロナ対策としての支援策としてベーシックインカムを、と主張する気持ちも十分理解できますが、コロナを一過性のことという前提で考えると、ベーシックインカムの有効性は低下し、いずれ消滅します。
ここは、持続性のある社会保障制度改革を前提として、時間をかけて合意形成と実現をめざすべきと考えます。
ベーシック・ペンションの導入が、社会保障制度改革の軸になり、財政システム改革の起点になるからです。
真面目に議論し続けた結果が、世代間抗争の激化と将来への不安の増幅しかもたらしていない。
その真面目さは、例えば『社会保障亡国論 』(鈴木亘氏著・講談社現代新書・2014/3/20刊)や『人口減少と社会保障 – 孤立と縮小を乗り越える』(山崎史郎氏著・中公新書・2017/9/25刊)に十二分に展開されています。
この真面目さをもってしても、明るい未来は遠のくばかり。
その真面目な提言と告白を、私たちは政治家ではないですが、真摯に受け止めて発想と行動の転換に進むために、敬意を払って、次回確認することにしたいと思います。
鈴木亘教授『社会保障亡国論』にみる正解と誤解
2021年2月10日
「政治改革と財政システム改革」シリーズ-6
このところ、「政治改革と財政システム改革」シリーズとして、以下を取り上げて来ました。
◆ 菅総理「生活保護がある」、麻生財務相「定額給付金再給付なし」発言が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/29)
◆ 「税と社会保障の一体改革」の欺瞞が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/30)
◆ 公助・共助、公的資金・国家財政から考える政治改革と財政システム改革(2021/2/2)
◆ 2030年社会保障制度改革の起点とすべき社会保障制度基本方針大転換による政治改革と財政システム改革(2021/2/4)
◆ 鈴木亘氏の社会保障制度論の限界と社会保障制度改革の必然性(2021/2/5)
また、こうした展開において、鈴木亘氏のBI論として
http://basicpension.jp で
◆ 鈴木亘学習院大学教授による、財源面からの2021年ベーシックインカム試案(2021/2/4)
を紹介しました。
今回、同氏の『社会保障亡国論 』にある反省と後悔の言を紹介して、私が考える「社会保障制度改革」の必要性・必然性と、シリーズで展開している「政治改革と財政システム改革」への必然的帰結について、述べたいと思います。
なお、前回同様、当記事に紹介する鈴木教授の言は、2014年2月同書発刊当時の状況を下にしてのものです。
ご了承ください。
鈴木亘教授、大正解の指摘
これまで行われてきた政府の社会保障改革論議は、全体を議論することなく、直ぐに年金、医療、介護、少子化対策、生活保護など、それぞれ個別分野ごとに分かれた議論を、厚労省・社会保障審議会の各部会で開始するのが常だった。
そして、それぞれの分野ごとに利害関係者や専門家が集まって、細かい技術的議論や制度論に埋没したり、あるいはもっと露骨に既得権益者間の利害調整に終始するうちに、いつのまにか大きな改革方針は忘れ去られ、現状維持的な小幅な改革にとどまるというのが、「お決まりのパターン」だった。
すなわち、これまでの政府の改革論議の枠組みは、誰も全体像をみない、誰も将来を考えない、誰も(税を含めた)全体の負担と給付のバランスを考えない、という縦割り行政と近視眼的行動の最たるものと言えます。
ここまでは、前提認識も、指摘部分の認識も、大正解です。
本当に、全体を前提として、あるべき形を追究しない。
すべて関連しているのだから、個別課題ごとに分断して考えていては、無駄な時間とコストを費やすだけ。
公務員である彼らには、コスト概念や責任性というものがないのです。
(システムなどという高尚なものではないゆえに)その習慣的・惰性型仕組みが、だれからも問題と指摘されることがないのです。
本来、マネジメントすべき大臣と総理大臣が、それを指摘し、改革すべきなのですが、輪をかけて、能力も意識もない。
こういう政治・行政が連綿と、まさに持続性を強くまったまま、繰り返され、継承されているのです。
だからこそ、政治改革が、行政改革に先行し、財政システム改革に先行しなければいけないのです。
こうした体質・体制は他の省庁でも、同様です。
そこに内閣は踏み込む意識も、知識も見識も常識も、ないのです。
それが自分たちの仕事という責任感がないことが、与党はもちろんのこと、野党議員にもないと見てよいのです。
税と社会保障の一体改革が可能と考える誤り
そして鈴木氏はこう続けます。
その結果として、社会保障に膨大な財政赤字が生み出され、長年にわたって全く改まらないことも当然の帰結。
その厚労省の「局あって省なし」という縦割り組織や、個別分野ごとに細分化された社会保障審議会の各部会は、「成長するパイ」をただ分け合えば良かった高度成長時代の遺物。
人口が減少・高齢化し、「パイが縮小」する時代にこのようなやり方が機能しないことは明らかだが、一度完成された仕組みを変えることは、実に容易なことではない。
「社会保障と税の一体改革」や、官邸直轄の「社会保障制度改革国民会議」を作ったことは、その仕組みから抜け出る一つのチャンスではあった。
この認識がやはり、というか当然というか、非常に甘かった、というか完全に見誤った、間違った。
パイが縮小する財政の中で、再分配や負担の変更を行えば、全員が満足・納得するようになることなど、元々あり得ない。
そう考えるべきだったのです。
「社会保障と税の一体改革」というテーマ設定そのものが、元々ムリ筋のテーマ。
世代間抗争必然の装置を提供することになったのです。
「改革」などできるわけもなく、「改悪」にしかならない、トレードオフの手法しか選択できないことが、なぜ大学の専門分野の学者にわからなかったのか。
そして、種々の会議に招聘された専門家、何割かは常連メンバーの学者、は、そうした会議メンバーに選ばれることが自分のステイタスを上げることと認識しているお目出度い人々。
こういう政治行政組織に、日本はズーッと引きづられてきているのです。
「仕組みから抜け出るチャンス」などとよくも言えたもんだと。
大甘のスーさん、という感じです。
いきなり、なんですが、官邸にその能力や責任感などあるはずもない。
かれらの意識は、権力を持つ、権力を集中させるということだけ。
あとはたまに号令を出すだけ。
ビジョンなどない、マネジメント能力も、当然ながらガバナンス能力などあろうはずがない。
厚労省官僚など、どうせ大臣など馬鹿にしているはず。
適当に忖度ぶりっ子していれば、総理も官房長官も、厚労相も、そのうち代わるのですから。
やはり遠因を探ると、安定し、信頼できる内閣ができる可能性も、その頭に立つリーダーの存在も期待できない持続性が連綿と続いていることにたどり着く、というか、悲しいかな、それが日本の力、レベル、姿ということに。
かの「社会保障国民会議」。
国民が誰を、何を意味するのか全く不明なこの会議。
平成24年11月から平成25年8月にかけて20回にわたり会議が行われ、報告書が平成25年8月6日にとりまとめられました。その後、平成25年8月21日、同会議は、社会保障制度改革推進法の施行から1年間の設置期限をむかえ、廃止されました。
なお、同会議の廃止に伴い、同会議に関する業務及び同会議が保有する行政文書については、内閣官房社会保障改革担当室に引き継がれております。
と恥じらいもなく、内閣官房のホームページに残されていました。
(参考)
「社会保障制度改革国民会議 報告書(概要)
~確かな社会保障を将来世代に伝えるための道筋~」
※この程度の内容は、会議を行わなくても、優秀な官僚一人で、3ヶ月間ぐらいでまとめられるものと感じます。
その内容を受けて、現在どういう状況にあるか、自ずとその評価は分かります。
かの鈴木氏は、こうも言っています。
トップダウンでしか改革できない
そしてこう続けます。
しかし、問題は、それができる有能なリーダーはめったに現れないということ。
これまでの歴代政権の例を考えても、そのようなリーダーが現れ、しかもトップに上り詰めることは、実に至難の業と言える。
しかし、だからと言って、ひたすらに奇跡が起きることを待って、何もすることがないというのも芸がない。
現在の我々にもできることとして、
1.そのようなリーダーが選ばれやすい環境をつくること
2.たとえ行政経験の少ないリーダーであっても、改革の意志さえあれば事が進められるように、改革実行の「仕組み」を準備すること
の2つがある。
この発言で、今度は、同氏のよほどの甘さにがく然としてしまうのです。
リーダーが出るか出ないかも、選べるか選べないかも国民の責任???
そしてお鉢がこちらに回ってきます。
まずはじめに、社会保障改革に強い意志を持ったリーダーが選ばれるには、国民自身が社会保障に対して正しい知識や情報を得ていることが重要。
特に、その維持可能性や世代間不公平に対して、国民の多くが強い危機感を持っていて、改革を叫ぶリーダーに共感しなければ話が進まない。
あとは省略しますが、そうした情報や知識をえることが難しい要素・要因が、厚労省を含む種々の既得権者の抵抗で困難とまで言っています。
開いた口が塞がらない・・・。
そこで出されたリーダーのサンプル?が、小泉純一郎や橋下徹となれば、もう、正常な神経を失っているのでは、と・・・。
しつこいようですが、同書<あとがき>にある一節を最後に引用します。
前著『財政危機と社会保障』を刊行したのは2010年9月のことで、3年半経った。当時民主党の菅政権が「強い社会保障」などと称して社会保障のバラマキ拡大を「成長戦略」と位置付け、マニュフェストにもなかった消費税引き上げを唱えだしたことに対して、強い危機感を覚えたことが執筆のきっかけだった。
(略)
(種々警鐘を鳴らしたこの書は)幸い、多くの読者層を得て、これまでに筆者が執筆した中で、もっとも広く読まれるものとなった。
そして(2014年の)現在、本書の基本的なメッセージは、前著とそう変わらない。むしろこの間、さらに進んだ少子高齢化と財政改革、間違った改革、現政権の社会保障への無関心と現状放置の結果、事態はさらに悪化している。
そして同書刊行の2014年3月20日から既に、7年近く経とうとしています(2010年からは11年)が、同書の警告にも拘らず、貧困・格差の拡大、コロナ禍による問題の拡大と一層の顕在化は、同氏の主張・提案自体にも問題があったことを示している。
と、そこまで申し上げる気はありません。
ただ、繰り返しになりますが、基本とする考え方、「税と社会保障の一体化」とそれが意味する「財政規律を守る」という、一見もっともらしく、常識らしく思わせる考え、政策そのものにムリがある、ムリがあったと結論をだすべき。
そう思うのです。
ただそれは、鈴木氏にのみ向かって言うべきことでは当然ありません。
また、自公政権にのみにでも当然なく、むしろ野党、自称リベラルにこそ向けて発信し、理解を求め、どういう考察をすべきか、選択をすべきか、真剣に考えるべきと主張したいことなのです。
変革は、女性新党の創設と政治の場での多数の女性国会議員の活動で:10年がかりでの実現目標
と、結局言いたい放題になってしまいました。
そんなに言うならば自分がやれば。
とすべきとは常に思う者なのですが、私には到底ムリと自分を知っていますので、代替案ではなく、本気案、真剣案を昨年から提案しています。
女性新党の創設、その前段におけるカウンターデモクラシー活動をネット上で展開する「平和と社会保障と民主主義を考える女性の会」の設置と参加者募集。
⇒「ネットサロン・平和と社会保障と民主主義を考える女性の会」
それにこだわる気はないのですが、そのような形のもの、活動基盤があればと考えます。
既成政党のうち、そうした長期ビジョンを持ち、政治システム改革の必要性を感じ、プロジェクトマネジメントを10年スパン、3サイクルの30年間継続して遂行できる世代継承型の政治業務を担ってくれる組織ができてくれば、それももちろん望むところではあります。
コロナ禍にあって、もちろん今どうするかへの対策も不可欠です。
しかし、アフターコロナ対策が、2~3年程度をイメージしてのものしか描かない政治・政党であっては、このコロナの教訓の本質は、やり過ごされることになるでしょう。
それは、選挙だけ、政局だけを意識してのことに転換されるからです。
鈴木教授に恨みはありませんが、そろそろ発想の転換、行動の転換をして頂かないと、研究者生活もさほど有意義なものとは言えなくなってしまうのでは、と思うゆえに、言いたいことを言わせて頂きました。
女性新党による政治改革、それに基づく財政システム改革。
2030年までに基盤が形成され、2040年までに軸となる社会保障制度改革が実現し、2050年には、ほとんどすべての国民が安心して暮らせ、希望をもって生きていくことができる社会が実現している。
女性がその役割を担うことが最も望ましいと考えるのです。
次回は、その女性新党創設の準備に当たってのリーダー役に、と心から念じている団塊の世代上野千鶴子さんが、団塊世代ジュニアの雨宮処凛さんと行った対談を書にした『世代の痛み 団塊ジュニアから団塊への質問状』(2017/10/10刊)を読み終えたので、これを参考に考えるところを、と思います。
言うならば、上野さんへの「追っかけ」の一環です。
国家、公「おおやけ」「こう」、公共の意味とその正体:憲法から考える国政と主権 2021年3月16日
ベーシックインカム(以下BI)、私の提案ではベーシック・ペンション(以下BP)を論じる時、何割かの人は、それが制度化されることで、私たちが国に隷属することになる、国の奴隷となる、という表現を用いて反対します。
その時、その反対意見を述べる人々は、何をもって「国」としているのか。
その時の「国」とは一体誰、何なのでしょうか。
国とは
国とは、Wikipediaによると、一般的に、
住民・領土・主権及び外交能力を備えた地球上の地域のことを指し、ほとんどの国が憲法を成分法で作成し、自国の権利や能力を他国に表明している。
とあります。
なるほど、一般的な定義かな、という感じです。
ではついでに、国家とはなんでしょう。
国家とは
同じく、Wikipediaによると
国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるもの。
領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体。
政府機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的とし社会の組織化をする。
「国」に「家」が付くことで、なんともきな臭い、癖のある定義に変身してしまいました。
生殺与奪の権利を独占し、排他的な統治権を有して行使する。
こうなると、現状の共産党独裁習近平中国や、気違い金正恩が権力を独占する朝鮮労働党体制下の北朝鮮、そして軍部のクーデターにより今このとき抗議する国民を弾圧し殺傷するミャンマーなど、現実に存在する「国家」をイメージできるわけです。
国、国家自体がその危険性を持っている。
何よりも、その定義において「政治団体」もしくは「政治的共同体」とあることに注意が必要です。
「政治的共同体」と言われれば、政党をイメージさせるとともに、その政治を特定政党に委ねる住民・国民の行為自体が、共同体を形成するという拡大解釈に結びつく安心感がまだあります。
しかし、「政治団体」となると、危うさを感じさせられます。
先述の国の事例などは、まさにそのリスクが顕在化した格好の事例と言えるわけですから。
例示した国々と同類・同様の国は他にもあるわけで、ベーシックインカム、ベーシックペンションを巡る議論においてそのようなリスクを指摘することもやむを得ないかな、という気がしないでもありません。
ただ、上記の定義の中でもう一つ、「社会の組織化をする」という表現にもひっかかるところがあることを添えておきたいと思います。
主権在民の行使により、住民主体の国政を行う「国」「国家」を創出する
ここで、その「国」「国家」を統治する機構を考えると、基本的には、政府すなわち、国政を担う組織及びそのリ-ダーが存在し、これが「国」「国家」を代表していると定義できます。
従い、領土や人民の2要素はそのままとして、政府、その組織やリーダーが変わることで、国、国家の在り方、すなわち政治・行政が変わるわけです。
時の政府が、国民に対して、BIあるいはBPを支給することと引き換えに、基本的人権の全てや一部を制限し、あるいは奪ってしまう。
それを防止するには、憲法や法律でBI、BPの目的等を明確に規定し、基本的人権などの規制に及ばないようにする。
あるいは、そうした悪政を行わない国政レベルの政治的組織を選択しない。
それらが機能すれば、先の懸念は払拭されます。
要するに、国民が、そうした国政を担当する組織とリーダーの生殺与奪の権利を本来持っており、それを正当に行使すればよいわけです。
そこに思い至らなければ、反論する人自身が、そうした国、国家とその権力をもつ組織・リーダーを望む性向を持つと考えてもようのでは、と逆説的に考えてしまいます。
仮にそうでないとすれば、ただ、BIやBPの理解不足が理由ということです。
国、国家に不可欠なもう一つの要素「主権」は、国民・住民にあることを、私たちは強く、再認識しておく必要があります。
公、「おおやけ」「こう」とは
そこで、明らかになった「国」及び「国家」の国政の在り方を考える時、もう一つその意味を確認しておく必要がある言葉、用語があります。
公、「おおやけ」、あるいは「こう」についてです。
まず、「おおやけ」とは
1)政府、官庁、国家
2)個人の立場を離れて全体に関わること、社会、公共
とあります。
次に、「こう」とは
1)国家や社会の全体に関係する事柄、おおやけ
2)国や官に関わること、おおやけ
3)世間一般
禅問答をしているようなものですが、両方に、「社会」「公共」「全体」という表現が共通に出てきました。
そして「個人」の立場を離れた「公おおやけ」と、「個人」との関係の在り方を考えるきっかけがここに示されてもいます。
「国」「国家」と「社会」「公共」との関係、そして「個人」との関係の在り方が当然課題になってくるわけです。
それでは、「公共」とは何でしょう。
公共とは
公共とは、
社会一般、おおやけ、社会全体、国や公共団体がそれに関わること
というのが、辞書的解釈です。
それでは、漠とし過ぎています。
私の解釈をお許し頂ければ
1)公(おおやけ、こう)を共(とも)にすること、公を共同・共有すること、及び
2)「共同」「共有」の在り方を、「公(おおやけ)」と結びつけて規範・基準・規定化したコト、モノ
を意味する
とします。
こうなると、「公共」という言葉に、動きや意味が感じられるようになるのではないでしょうか。
「公」と「共」の関係の在り方を包括する意味を持つのが「公共」でもあるのです。
憲法で規定する国政及び国家概念
憲法の前文に
国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
とあります。
この国政の及ぶ範囲が、「国家」「国」という最大の社会単位です。
そして憲法の以下の条文に、国政すなわち国の行政を統括する内閣が規定されています。
〔行政権の帰属〕
第六十五条 行政権は、内閣に属する。
従い、内閣を構成する政治グループ・政党が、国民が信託した国政権限を保有して行使し、国民が享受する構図が言うならば国家の在り方と言えるでしょうか。
憲法前文では「権力」と表現されているところを、私はここで「権限」と読み替えています。
もちろんその国政は、憲法を筆頭とする法律に基づいて、行使されるべきものです。
そしてその法律を制・改定するのが、立法府である国会であり、この国会議員を選出するのが国民ということも憲法に規定されています。
〔国会の地位〕
第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
こうして、国政の在り方を規定した憲法の当該条文で、「国」「国家」の所在が明らかになってきました。
それは、
主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
と憲法の前文及び本条文に示された「主権在民」理念及び規定の基づくものであることを、ここで再度確認しておきたいと思います。
ここに来て、国、国家の在り方は、個人と個人が形成する社会が、憲法が規定する国政の在り方を十分理解し、その権利を行使することで、決められることが分かりました。
ただ現実的に国政を望ましい形で管理運営していく上で、より詳しく、的確に理解していくべき課題が、憲法上に残っています。
憲法のいくつかの条文には、「公」や「公共」そして「公」務員という用語を用いた規定があります。
また、国政・行政を進める時に、「公的」「公共」という表現が頻発しますし、「地方公共団体」である地方自治体も行政機能を「国」と共に、あるいは分担して担っています。
こうしたそれぞれの行政に取り組む上で用いられる「公」なるもの、「公的」なもの」とは、現実的には一体どういうモノ、コトなのか。
注意深く考え、その利用・執行などに当たっては、間違いのないよう、公正に判断され、法に基づき運用される必要があります。
なぜなら、現状の政権政党である自民党が提起する憲法改正案自体に、現状の憲法に規定する国政の在り方や国・国家の在り方を否定している性格を見るのです。
そして、特定の組織や団体への利益誘導や、自らを国家として本来国民から信託しているはずの行政行使のための権力を自政治団体に集中・集約させることを政治目的とするかの性質も読み取ることができます。
次回、そうしたリスクを孕んだ現実に極力視点・焦点を当て、望ましい国政が行われる社会組織の整備、拡充に寄与できるよう公的なるものや公共に関して考えてみることにします。
(参考) ⇒ 【日本国憲法】
公共、公的なるものの正体:公費、公的資金から考える国家財政と経済-1
2021年3月17日
前回、
◆ 国家、公「おおやけ」「こう」、公共の意味とその正体:憲法から考える国政と主権(2021/3/16)
と題した記事を投稿しました。
ベーシックインカム(BI)やベーシック・ペンション(BP)を巡る国家とすべての受給者である国民との関係を考えることと重ね合わせて、国家、公とは何かを考えつつ、「公共」を私なりに、
1)公(おおやけ、こう)を共(とも)にすること、公を共同・共有すること、及び
2)「共同」「共有」の在り方を、「公(おおやけ)」と結びつけて規範・基準・規定化したコト、モノ
と定義しました。
その流れに沿って、今回のテーマに入ります。
憲法にある「公共の福祉」とは
わが国の憲法の基本的人権について規定する<第三章国民の権利及び義務>のなかに、以下の規定があります。
BPの導入の基本的な目的としている条文でもあります。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
両方に、「公共の福祉」という表現が用いられています。
憲法で規定する自由も権利も、公共の福祉のために利用することを求められ、個人の尊重、生命、自由、幸福追求権も、公共の福祉に反しては認められない。
そう解釈もできる(する必要がある?)表現です。
これには、黙ってハイそうですか、と受け入れることには問題がありそうな気がします。
この「公共の福祉」とは、一体どういうものか、どの範囲を言うのか、気になります。
「個人」の福祉ではなく、「公共」の福祉になっていることが鍵のような気もします。
そこで、
1)公(おおやけ、こう)を共(とも)にすること、公を共同・共有すること、あるいは
2)「共同」「共有」の在り方を、「公(おおやけ)」と結びつけて規範・基準・規定化したコト、モノ
とした公共をイメージし、それに「福祉」を結びつけてみましょう。
公共の福祉は、公が共同社会に行う福祉として捉えるか、公共自体を国とみなして、国の福祉制度・政策と個人の自由・権利と関係させて、福祉の利用・受益に制限をかけることを想定してのことか。
実は、基本的人権や幸福追求権などを根拠にBPを提起するに当たって、背後霊を感じるかのごとく、気になっているのが、この「公共の福祉」条項なのです。
その不安を連想させる憲法条文の他の一つに、以下があります。
〔財産権〕
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
正当な保障という条件がありますが、私権の一つである財産権が、公共のために使われてしまうこともある。
ならば、BIやBPを何か、例えば、先述の意見のように「隷属・従属」を強いることとの差し替え、引き換えに支給する、ということをどなたかが想像してもやむを得ない・・・。
そう考えると、BI.BPに限らず、政府はどんなことでもできるわけで、そんな不安・懸念を抱かせるような政治、政府の実現を、やはり私たちは、自らの選択、責任で阻止するしかないわけです。
その基本を常に確認する上で、現在の自公政権による政治の危うさを常に監視し、利権主導・権力志向と復古主義行政、誤解も甚だしい自助に名を借りた新自由主義政治を阻止する必要があるのです。
公助と共助との違いと関係
自民党前安倍内閣の時代から、現菅内閣に至るまで、まずは自己責任による「自助」、それが不可能ならば「共助」、そして最後の手段として「公助」というお粗末なレトリックを使う自民党の体質・本質を、十分認識しておく必要があります。
彼らが言う「公助」とは、カネを出すことです。
「共助」の「共」には、公共性は含みません。
せいぜいで、地方公共団体である地方自治体が拠出する公的資金が含まれているかもしれませんが。
いずれにしても、政府にある金は、自分たち政府・内閣が使うためのもの。
その認識は、国家財政を司るのが内閣なので、ある意味当たっているのですが、大きな勘違いの元は、そのお金が、政府が稼いだものではなく、国民と企業等が負担した税金か、国債を購入するために使用したお金だということ。
従い、彼らが言うところの「公助」とは「共助」を代行・代理して、国民に代行して「公共助」を行うことと理解すべきなのです。
公費とはなにか、国費の源泉はなにか、財政とは
憲法第89条はこんな内容です。
〔公の財産の用途制限〕
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
「公金」「公の財産」について述べた、憲法<第七章財政>では、以下のように、国家財政、国費、予算に関して規定しています。
〔財政処理の要件〕
第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
〔国費支出及び債務負担の要件〕
第八十五条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
〔予算の作成〕
第八十六条 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
〔予備費〕
第八十七条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
なぜここでこんなことを持ち出したか。
政権政党が及び内閣が、自身の権力とみなす財政権、国のお金と称する、民間から集めた資金を予算化し、予備費も設け、みずからの都合をも反映させて費消する権利を行使することの意味。
これが、本来、主権としての国民が持っている「公共助」としての権利を、一応政府、政権政党に信託、信じて託したものであることを申し上げたかった理由です。
国が賠償責任を負うときの、資金の源泉
また憲法第三章に戻って、次の条文を確認します。
〔公務員の不法行為による損害の賠償〕
第十七条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
公、おおやけの業務に携わる、職業としての「公」務員。
公務員が、仕事上、法に反して仕事を行い、その結果損害賠償を行わなければいけない状況を招いた。
その場合に支払う必要が生じた損害賠償に充てるお金は、公費で賄われます。
この公費、決して国が自分で働いて得たお金ではありません。
当人が、自分の給料から払うよう強制されるわけでもあません。
国民や企業が働いて、あるいは事業により収めた税金を、公費として使うわけです。
考えてみれば、これもおかしな話です。
国、あるいは地方自治体を相手取って訴訟を起こし、その責任を追及して、損害賠償を要求する。
恐らく、そうした係争は現状いくつも起こされており、国(自治体)側敗訴、上告断念、賠償実行等というプロセスをたどるケースも多いと思います。
地方公共団体の公共とは
加えて、<憲法第八章地方自治>には、以下が規定されています。
〔地方自治の本旨の確保〕
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
〔地方公共団体の機関〕
第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
〔地方公共団体の権能〕
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
国政の延長線上にあり、一方では、国政とは一線を画す性質も持つ、地方自治・地方行政。
ここでも同様の公的資金をめぐる課題があります。
地方の一定の単位共同社会における「公」の在り方、それが地方政治であり地方行政です。
特に、地方自治体の財源に関する課題は、税制と大きく関わっており、今回ここでのテーマとすることはありません。
国家財政における公費、公的資金の性質と経済政策との関係
以上の展開からの、今回の帰結です。
それは、現状の日本の政治・行政において用いられる財政資金の殆どが、本来は、個人や企業などの経済活動に基づき税として徴収されたものか、国債を発行して調達したお金が大半であり、純粋に国の事業により得たカネは、極めて少ないということ。
すなわち、国費、公費や公的資金とされるお金は、すべて、共助により徴収されたものであり、その予算化や執行は、主権をもつ国民の信託により行われるもの、ということを確認するのが目的でした。
そしてそれを知ることで、これからの政治への関わり方、参加の仕方などを現実的に考え、その都度政治・行政をどのように導くのかという責任の果たし方、権利の遂行の仕方を考えていくことにしたいと思います、
そこに、経済の望ましい在り方をも自ら考え、判断できる見識をも持つべきことも付け加えたいと思います。
しかし、そこで終わっては、これまでと、財政政策、経済政策の抜本的な解決・改革には到達できません。
コロナ禍で勢いを増しているMMTを簡単に受け入れることで、それが可能とも思えません。
では、どうすべきか、どうあるべきか。
前回と今回のテーマを確認しつつ、
1)「公費、公的資金から考える国家財政と経済-2」として、これからの財政政策・経済政策の在り方
2)公務員とはなにか
この2つの流れに分流して次の話に進みたいと思います。
国費、公共費の再定義と財政改革を:公費、公的資金から考える国家財政と経済-2
2021年3月18日
国、公とは何かをシリーズで考察してきています。
一昨日、昨日と以下展開してきました。
◆ 国家、公「おおやけ」「こう」、公共の意味とその正体:憲法から考える国政と主権(2021/3/16)
◆ 公共、公的なるものの正体:公費、公的資金から考える国家財政と経済-1(2021/3/17)
今回は、引き続いて、「公共」を考える中で、従来の「公費」についての認識と取り扱い方法を変革すべきではないか、という議論に行き着きます。
公共料金に見る、地域・全国独占性の高い生活インフラ事業の公共性
古くは3公社と言われた、国有事業であった3種類の公共事業がすべて民営化されてから相当の年数が経っていますが、3公社とは何かを知らない世代の方が多いのではないかと思います。
また5現業に含まれていた、郵政公社事業もアルコール専売事業も民営化され、国有林野事業は企業的運営が廃止、日銀券や切手の印刷等にかかる事業や造幣事業は、それぞれ 行政執行法人たる独立行政法人国立印刷局および造幣局に改組されています。
ところでネット上で種々の申込み手続き上の本人確認の証拠書類として、公共料金の領収書を求められることが多々あります。
電気料金、ガス料金、電話料金、水道料金などの領収書を用いることが大半かと思いますが、水道事業を除けばみな民営化されているにも拘らず、なぜ公共料金と呼ばれているのでしょうか。
それは、ご承知の通り、どちらも生活を送る上で、必要不可欠のものであり、ほとんどすべての世帯が利用し、費用を支払っているためです。
社会全体をカバーしているという意味で「公的」であり、社会共同体を維持していく上でその施設や事業を「共通」に利用しているという「公共性」があるわけです。
それは同時に、それぞれの事業者・企業は、その事業の公共性から、サービスの質の保証、利用環境の整備・改善、事業の安定的な運営管理、事故・災害時の早急な適切な対応などが、義務付けられていることを示しています。
国家や地方自治体の公務と同等、あるいは、生活のインフラそのものの機能を持つ故に、それ以上の責任を担っているとも言えます。
公共事業に充てる公費、その原資は
もう一つ、別の観点からの「公共」を見てみます。
公的施設の建設や、河川等の改修工事など、建設・建築等に公費・国費を投じる場合、あるいは民間が行う事業に、公共性を見出して補助金などを投入する場合、公共事業に公費を充てるという言い方をします。
その支払先は、ほとんど民間事業であり、その事業者は、入札などで工事などの担当する権利を得て、事業利益を得ます。
よく、景気回復、経済成長を目的とした有効な手段とされており、経済界からの要請が大きい領域です。
民間企業などに対する発注・調達に公費を使って行うのが広義の「公共事業」というわけです。
しかし、その公費も、現状は、個人や企業から徴収した税金、すなわち共助による「公共費」と言い換えることができるものです。
その公共費の使う方法、金額を決定するのが国の財政とその予算です。
コロナ禍では、さまざまな助成金・補助金・給付金の給付に必要な支出の原資が大きく不足し、赤字国債の発行で賄うしか他に方法がない状態になっているわけです。
真の公費を「国費」と呼ぶ
そこで、MMT論者の主張が勢いを増し、税金や保険料に頼らない財政への転換が叫ばれているわけです。
この税にも保険料にも頼らない財政。
これを財政と呼ぶのかどうかの問題が残りますが、仮にそれが可能とすると、これこそ「公費」と呼ぶにふさわしい、国の責任で自ら発行・調達する資金ということです。
そこで提案です。
この税金にも保険料にも頼らずに、国の責任で発行する資金を「国費」と統一して呼ぶ。
従来の国民の負担・拠出による税を原資とする「公費」「公的費用」は、「公共費」と呼んではどうだろうかという提案です。
地方交付金を主財源の一つとする地方公共団体、地方自治体の公費も「公共費」です。
国費と国費事業と国費規律
従来の財政規律は、公共費の予算管理の範囲で必要になります。
一方、国費はその枠とは別の管理方式に拠ることになります。
まず、明確な目的を持ち、個人や民間企業が負担する必要がない性質をもつ事業にのみ、特定の金額だけ活用することを事前に決定しておく。
例えば消費増税は、特定の利用目的に充当するためのものだったのですが、反故にされてしましました。
そのようなことを許さない法律による拘束、規律・規定・基準が、この国費用の通貨の発行と利用管理に絶対に必要です。
国費扱いすべき事業選考と国費管理システム構想化
例えば、原発の処理にかかる費用
現状の財政では、この膨大かつ半永久的に公共費支出が必要とされます。
しかし、本質的に、国民一人ひとりがその責任を分担し、徴収された税で、分担すべきものでしょうか。
あるいは、大規模自然災害により、絶対的に多数の国民が被災し、国土の復興も含めて膨大な財政支出を余儀なくされる場合。
従来に方法では、復興税を追加徴収されたり、赤字国債の発行により一時的財源化し、国債償還時期に処理を先送りする選択肢しかなかったわけです。
こうして徒に国民に負担を一方的に強いて、安定した生活、豊かな生活の実現を先送りする、あるいは諦めざるを得なくする。
もうそれが当たり前、という財政の在り方には終止符を打つべきではないか。
そう考えるのです。
本質的に、国民一人ひとりに過去の費用の返済や、想定外の負担を負わせる財政システムから脱却する。
そのための資金調達方法と資金管理システムを、新たな「国費」システムとして開発・構築する。
21世紀の新しい社会経済システム、政治システムとして位置づけ、議論・検討し、その前半で合意形成し、後半には導入・稼働・機能している。
2030年までに議論と考察を進め、具体的な管理システムのデザインを終える。
次の10年間に、新しい「国費」必要事業の選択・決定と見積もりを行い法制化する。
2040年から実際に順次稼働に入る。
2050年以降は、軌道に乗っている。
そんな取り組みを想像しています。
国の責任が問われる事案と損害賠償責任のために必要な、公務員による公務責任保険制度導入
ところで、現在もさまざまな国を被告とする訴訟が行われています。
中には、国に損害賠償を求める訴訟も多く、時に原告側のその主張が認められ、国や自治体がそれなりの金額を支払うケースも日常的に見られます。
こうした場合の資金も、先の例で言うと「公共費」支出です。
言うならば、国民の訴えが認められれば、国民がその賠償金を分担している。
そういう構図、システムが機能しているのです。
これもある意味、矛盾です。
かといって、責任から逃れることは当然できません。
また、これらの訴訟案件は、係争・審理に非常に年数がかかり、案件発生時の行政体制・担当者が、判決時にはいないのも普通にあることです。
場合によっては、過去の担当公務員の責任が問われるべきであっても、現実的にはムリで、財政支出するしかない。
その案件の当事者であった公務員(政治家含む)の受け取っていた賃金も実は「公共費」で、全てを国民が負担しているわけです。
こうした国や自治体を相手取っての訴訟および損害賠償にかかる費用の財源として、公務員給与から低率の保険料を控除・徴収する方法を検討しては、と考えるのですがどうでしょうか。
もちろん、自治労など大反対でしょうが、これまで不思議にだれも問題提起してこなかった課題です。
これも、財政改革の中の一つの検討課題に組み入れてはどうかという提案を、ここでしておきたいと思います。
ベーシック・ペンションは、国費を投入する社会システム、社会経済システム
さて、随分長くなりました。
今回の最後は、先程の、従来型財政システムの枠外での特定目的型国費事業として、日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金支給のための通貨の発行をまず指定すべき、という提案で締めくくりたいと思います。
ベーシック・ペンションについては、当サイトの昨年投稿記事と、当サイトから今年元旦にスピンオフして開設した専門サイト http://basicpension.jp でじっくり確認頂ければと思います。
次回、「公」シリーズは、先程提起しました内容と関係する「公務員」についてです。