『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム
知っていましたか民間銀行がお金をただで創る特権を持っていることを:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/17)
最近読んだ以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ。
序論としての初めの2回の投稿は以下。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)
次に、初めに選んだのが『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)。
<『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済>と題して、以下の4回にわたってのシリーズ。
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
◆ なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
◆ 脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)
そして、今回から、『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)を題材として、これからの社会経済システムのあり方について考えたいと思います。
初めに、同書の共著者である井上智洋氏に拠る<第3章現代資本主義の問題点><第5章銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ>及び松尾匡氏担当の<第6章信用創造を廃止し、貨幣発行を公営化する>の3つの章に焦点を当てて、基本的なことを確認します。
井上智洋氏については、既に当サイトで以下で取り上げてきています。
◆ 井上智洋氏提案ベーシックインカムは、所得再分配による固定BIとMMTによる変動BIの2階建て(2021/2/24)
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー1(紹介編)(2021/4/8)
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー2(評価編)その意義と課題(2021/4/9)
<第3章 現代資本主義の問題点>から
「加速主義」は「資本リアリズム」からの脱出方法か?脱労働社会との関係は?
資本主義では、資本の投下とその増大という、資本の増殖運動が展開される。
ソ連型社会主義では、この資本の増殖運動を民間企業の代わりに国家が担った。
それは資本主義のオルタナティブではなく、「国家資本主義」の一種でしかなかったのだが、その失敗によって、資本主義がまったくの出口なしであることが明らかになり、左派・左翼にはさしたる展望も理念もなくなった。
この出口なしのように見える資本主義を「資本主義リアリズム」という。
その出口なし資本主義リアリズムを、そのダイナミズムを加速することで、極限において資本主義からの脱出を図ろうという思想が「加速主義」であるとして、ここで紹介しています。
実は、加速主義については、先述の『人新世の「資本論」 』シリーズ内の
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
でも取り上げました。
井上氏は、(自身が待望するという)AIなどの自動化技術が進歩し普及した結果としての、直接的な生産活動を機械だけが行う*「純粋機械化経済」が実現し、人々が生活のための賃金労働をしなくても良いような「脱労働社会」が到来することが、ある意味で、その加速主義に通じていると見ているのです。
*(参考)『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)』
正すべき現状の資本主義の課題
資本主義の最も基礎的な定義の一つとしての資本の増殖運動による経済に加え、市場経済の全面化と、市場で交換の媒体として機能している貨幣に関する制度が「銀行中心の貨幣制度」になっていることを、井上氏は指摘。
この市場経済を計画経済に置き換えようとした「ソ連型社会主義」が機能せず失敗。
その理由を、同氏はこう語ります。
私たちが廃棄すべきだったのは、市場経済ではなく、銀行中心の貨幣制度の方だった。
国民の多くは、お金がどのように創られているかを知らない。
(例えば)主にお金を創ってるのが、日銀のような中央銀行ではなく、みずほ銀行やりそな銀行といった民間銀行であることを知らない。
こうした井上氏の指摘は、同氏による『AI時代の新・ベーシックインカム論』にも、書いてあったのですが、初めの頃は、どういうことか私には意味が分かりませんでした。
本書ではこう続けます。
銀行こそが「お金を創る」という特権を政府から与えられている。
そして、その分私たちは得られるべきはずのお金が得られず、家を建てるにもローンを組んで銀行からお金を借りて利息を払わなければならない。
このような不正を正すこと、つまり、「銀行中心の貨幣制度」を廃止して「国民中心の貨幣制度」を打ち立てること。
それが、ただ指を加えて脱労働社会を待ち続ける以外に私たちが資本主義に対してなすべきことなのである。
そもそも銀行には、お金を創る特権があると聞けば、「なぜだ!?」と思うのが自然・当然。
そんなことは露知らず、ほとんどの人は、銀行をの日常生活での利用や、銀行で働く人が、恵まれた給与を得ていることに羨ましくは思いつつも、さしたる疑問も抱かずにいます。
お金を創る權利は、だれのもの?
お金を印刷しているのは昔ならば大蔵省造幣局、今は財務省所管の独立行政法人国立印刷局であり、日銀がそれを日本銀行券として発行している。
日本のお金の印刷・発行は、ここにすべてが集約されている。
そう思っている私たちの中に、こうした指摘を、「なんだそんなこと当たり前のことじゃないか」とすんなり受け入れることができる人は、果たしてどの程度いるでしょうか。
いいですか?
銀行が、仮に1,000万円の現金を手元に保有していなくても、住宅ローンを組む人に、その人の通帳に1,000万円記帳することで、新たにお金を生むこと、創ることができるというのです。
仮にそれが民間銀行にできるとすれば、国の権限・機能の一端を握っているとも言えるわけで、民間銀行ではなく、公的機関・公営銀行と呼ぶべきではないか。
これが資本主義の根幹の一つの要素とすれば、確かに、これは一種の不正であり、この不公平性は変革すべき。
単純に、純粋に、そう思います。
しかし、その前に、その現実、そのカラクリについて、冷静に、もっとしっかり理解しておく必要があります。
次回、<第5章銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ>で、不公平な銀行制度、摩訶不思議な、知られざる現代の社会経済システムについて、しっかり確認することにします。
知らなかった、民間銀行の信用創造による貨幣発行益濡れ手で粟:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2(2021/5/9)
最近読んだ以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ。
序論としての初めの2回の投稿は以下。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)
これに続く形での『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)。
<『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済>と題して、以下の4回にわたってのシリーズ。
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
◆ なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
◆ 脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)
そして、前回から、『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)を題材として、これからの社会経済システムのあり方について考えています。
1回目は、同書の共著者である井上智洋氏に拠る<第3章現代資本主義の問題点>に基づいての
◆ 知っていましたか民間銀行がお金をただで創る特権を持っていることを:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/7)
今回は、<第5章銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ>をテーマとします。
また、これを補うべく、同じく井上氏の書『AI時代の新・ベーシックインカム論』の<第3章貨幣制度改革とベーシックインカム>も参考にしたいと思います。
<第5章 銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ>から
初めに、井上氏による貨幣制度についての予習です。
現代の貨幣システムを形成する3つの制度
1.管理通貨制度:金本位制度と異なり、貨幣の価値は金に裏付けられる必要がなく、お金の量は中央銀行が責任をもってコントロールする。
2.銀行券集中発行制度:昔は、各銀行が勝手にお札を発行し流通させていたが、今は、中央銀行だけがお札を発行できる。
3.部分準備制度:本来「民間銀行が預金の一部を保管する」ものだが、現実は異なっており、本書での問題の一端がここにある。
以上を予備知識として、以下の今日の本論に入っていきます。
「部分準備制度」と「預金準備」の実態
部分準備制度とは、預金のすべてを貸し出しに回さないで、一部を「預金準備」として残しておくこと。
民間銀行は中央銀行(日銀)に対して、当座預金を持っている。
家計や企業は民間銀行に預金しているが、民間銀行は中央銀行に預金しており、この当座預金にあるのが預金準備。
中央銀行(日銀)には、銀行の銀行という役割があるのだが、民間銀行は、中央銀行の当座預金に一部のお金を預け、残りを個人や企業への貸し出しに回す。
そこでは、「法定準備率」が決められ、預金のうち、例えば1%以上は預金準備として預けておかねばならない。
その場合、99%は貸し出しに回してよいことになる。
これが教科書的な説明だが、現実はそうなっていないと言う。
ではどうなっているのか?
中央銀行(日銀)が、買いオペ・売りオペで預金準備をコントロールする
そうなっていない、ということは、法律通りに預金準備が行われていないということ。
どういうことか。
預金準備は、中央銀行が民間銀行保有の国債を買い入れて、代わりに貨幣を供給する「買いオペレーション(買いオペ)」で増える。
一方、中央銀行が民間銀行に国債を売って、代わりに貨幣を吸収する「売りオペレーション(売りオペ)」で減少する。
すなわち、中央銀行が預金準備を実質コントロールしていることになる。
信用創造とキーストロークマネー、万年筆マネー
この中央銀行による預金準備コントロールに加え、もう一つ、看過すべきではない重要なことがある。
それは、民間銀行が保有する預金を貸し出しに回すということも行われていない、というのである。
考え方としては、中央銀行に預けてあるお金を使わず、又貸しするかのように個人や企業に貸し出しを行う。
すなわち「民間銀行は、無から貨幣を創造して貸し出し」ているのだ。
MMT(Modern Monetary Theory現代貨幣理論)で用いられる、通帳の万年筆で金額を書き込む「万年筆マネー」、あるいは、パソコンなど端末のキーボードから数字を入力するだけで済む「キーストロークマネー」が、これに当たる。
言い換えれば、そこでは、日常的に、民間銀行により信用創造が行われているわけだ。
知らなんだ!
てっきり、貸し出しできる額の現預金を民間銀行は、ちゃんと持っているものとばかり思っていた。
異次元の金融緩和が機能しなかった「信用創造の罠」とは
例のアベノミクスとして日銀が行ったインフレ率2%を目標としての「異次元の金融緩和」。
先述した「買いオペ」を年間80兆円規模で行い、日銀当座預金に膨大な額のお金、預金準備が積み上がった。
しかし、それと、お金が市中にジャブジャブ供給されて、消費に回り、需要と供給のバランスが崩れ、物価が上がってきたなどということはなかった。
唯一、コロナ下、アベノマスクのバカ騒ぎを起こしつつ、マスクと消毒など関連品を含めて、一時価格が上がり、品薄にもなったが、それだけで終わった。
要するに、企業の投資意欲も少なく、個人消費もモノ余り状態であり、将来対策としての貯蓄選好度が高く、実際の貨幣供給(マネーサプライ)、マネーストックに結びつかなかった。
素人の私が、一生懸命理解しようと努力したことの一つ。
それは、
マネーストックとは「現金」と「お金」
マネタリーベースとは「現金」と「預金準備」
この異次元の金融緩和時においては、
マネタリーベースはどんどん増えたが、マネーストックはさほど増えていない、すなわち、お金が社会にうまく流通しなかった、ということだ。
この両方を区別せず、一部の経済学者は「金融緩和を行い、貨幣量を増やしているのに需要が増大しないのは、流動性の罠に陥っているため」という。
これを指して、井上氏は
「金融緩和を行ってマネタリーベースの増大率をかなり引き上げても、マネーストックの増大率が上昇せす、それがゆえに需要が十分に増大しない」という「信用創造の罠」が、失われた30年間に実際起きていたとしている。
ヘリコプターマネーという財政ファイナンスを学ぶ
この「信用創造の罠」から脱却するために必要かつ有効なのが、「公的機関が貨幣発行を財源に政府支出を行う」ことを意味する「ヘリコプターマネー」であると同氏は続ける。
そこでは、<政府紙幣発行>及び<直接的財政ファイナンス>という「直接的ヘリコプターマネー」と<間接的財政ファイナンス>という「間接的ヘリコプターマネー」3種のヘリコプターマネーがあるということも、一応知っておきたい。
経済成長するためには、お金の量を増やしていくことが必要。
その方法の一つとして、政府が(政府)紙幣を発行して家計に配る「直接的ヘリコプターマネー」がある。
もう一つは直接的財政ファイナンスであり、中央銀行が発行したお金を政府に渡し、政府はその代わりに国債を渡し、お金は家計に配る方法。
本質的には同じである両者は、貨幣発行を財源に政府支出を行っているのだが、後者のように役割を分けた方がインフレになり過ぎないで済む、という。
例えば、インフレ率2%目標とすれば、中央銀行にそこに達するまで国債を買い入れること、と政府が一般的な支出には受け取ったお金を使わないという足かせを守ることで、直接的財政ファイナンスが望ましいものとなる。
(この条件・規律は、非常に重要と私は考えます。)
残る間接的ファイナンスは、既に実施されている政策であることが示されている。
すなわち、政府が支出の際国債を発行して民間銀行が買い入れ、その国債を中央銀行(日銀)が買い入れる。
これにより政府支出の財源が間接的には中銀発行のお金になっている、というもの。
ということは、既に、日本が間接的財政ファイナンスという形で、ヘリコプターマネーをばらまいている、と。
ちょうどコロナ禍で特別定額給付金にとどまらず、さまざまな支援としての給付金、補償金などの支出の要請が起きており、その財源として、赤字国債の発行はやむなし、と議論され、実際にそうせざるを得なくなっていることで理解できる。
貨幣発行益と信用創造廃止を巡る議論
筆者は、資本主義からの脱却云々の前に、先のヘリコプターマネーによるいくつかの財政と財源のあり方を提示しているのですが、いずれにしても、政府または中銀による紙幣の発行と国民への支給方法を提案するわけです。
その中でのイチオシが、直接的ヘリコプターマネー。
それを可能にする根拠が、貨幣発行益。
これも初めて聞いた時には何のことか分からなかったのですが、そのまま受け止めれば良かった。
貨幣を発行するには、そのお金の材料費や製作・製造にコストがかかるのは当然。
お金の額面自体は資産だが、その額から製造原価を差し引いたものが、貨幣発行益。
シンプルです。
その益を、国民に配当として配れば市中にお金が出回り、消費され、経済が活性化・成長する。
という簡単なロジック。
簡単だが、これまでは、マネーストックの大部分の預金を創造しているのが民間銀行で、その信用創造で貨幣発行益を得ていたわけで、本来国が得るべき貨幣発行益を逸失していたというバカげた制度・システムだったわけだ。
ということが分かれば、この民間銀行の信用創造の特権を廃止・禁止すべきという議論が行われて当然だろう。
民間銀行の信用創造廃止により、100%準備制度に移行すると
まあ、それがすぐに可能かどうかは別問題として、民間銀行の信用創造を廃止・禁止するということは、冒頭の3制度に戻ると、部分準備制度を改め、100%準備制度に改めることを意味する。
となると、民間銀行はどうなるのか。
井上氏は、こう言う。
私たちは民間銀行に対して、お金を貸しているのか預けているのかよくわかっていない。
信用創造廃止論は、こうした二重性をやめ、お金を貸すという金融仲介の役割は別建てで行うことになる。
貸し出しは貸し出し、預け入れは預け入れと区別し、預け入れたお金は他に貸さない。
これで、銀行はお金を創れないようになる。
しかし、今まで銀行が行っていた与信、つまり融資の審査を役所が行うわけではなく、公的融資も考えてはおらず、民間経済主体が融資すべきだ。
例えば、ノンバンクが、他から資金を調達して貸し出しを行っているように。
大改革です。
すぐに可能かどうかは別として、考えるべき課題と思います。
民間銀行の信用創造廃止とそれによる銀行法の大改革。
当然、これまでの資本主義の根本から見直すことをも意味します。
銀行中心から国民中心の貨幣制度への転換の意味するもの
民間銀行の信用創造を廃止し、100%準備制度を導入し、中央銀行だけ、あるいは国だけが貨幣を発行できる制度にするとどうなるのか。
そこでは「資本」という概念自体がなくなるのか?
その道筋を描くことで、本書のテーマである「資本主義からの脱却」が可能になるのか。
そしてその時の経済システムは、どうなるのか。
民間銀行が信用創造できなくなると景気の安定化に繋がるとした後、この章の最後に井上氏が描くのは、こういう社会経済です。
中央銀行が丸々貨幣発行益を得ることで、その利益を国民に分配すること、すなわち「国民配当」が可能になる。
100%準備制度に近づけば近づくほど、その配当が増え、国民が豊かになる。
それが、「国民中心の貨幣制度」である。
(略)
重要なのは、「国民」に直接現金を給付するような政策であるヘリコプターマネー(国民配当)をマクロ経済政策の主軸に据えて、景気をうまくコントロールするということだ。
ここを読むと、これは「ベーシックインカム」のことか、と思い当たることになるでしょう。
しかし、このまとめで、資本主義からの脱却となるのか、この結果、どういう新しい社会、どういう新しい経済が実現するのかまでは、語られておらず、想像もできません。
次回、松尾匡氏による<第6章信用創造を廃止し、貨幣発行を公営化する>に主軸を移して、本書『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』の総括にしたいと思います。
なお、本稿では、当第5章で頻繁に触れていたMMTに関する比較等の記述は、本題とは直接関係するものとはせず、割愛しました。
ご了解ください。
信用創造廃止と貨幣発行公有化で、資本主義と社会はどうなるのか:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-3(2021/5/11)
最近読んだ以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ。
序論としての初めの2回の投稿は以下。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)
初めに取り上げたのが『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)。
<『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済>と題して、以下の4回シリーズ。
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
◆ なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
◆ 脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)
次いで、『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著:2021/3/30刊)を題材とした以下の2回の記事
◆ 資本主義リアリズム、加速主義、閉塞状態にある資本主義の正し方:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/7)
◆ 知らなかった、民間銀行の信用創造で濡れ手で粟:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2
そして今回は、前回テーマとした<第5章銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ>と文脈が連なると考えられる、松尾匡氏による<第6章信用創造を廃止し、貨幣発行を公営化する>を対象として、考えることにします。
信用創造批判論とMMTの主張合戦、比較ゲームはたくさんです
本章だけのプロローグで、高橋真矢氏は「最も論争的な章である。それは主にMMT論者に向けられている」と書いています。
正直、私にとってそれはどうでもいいことで、要は、理解できるか、納得できるか、そして賛同できる内容かどうかです。
○○論、☓☓論という呼び名よりも、「実」です。
前回の記事
◆ 知らなかった、民間銀行の信用創造で濡れ手で粟:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2
でも、最後に「当第5章で頻繁に触れていたMMTに関する比較等の記述は、本題とは直接関係するものとはせず、割愛しました。」と添え書きしました。
従い、この6章でも相当、MMTと信用創造批判との違い、類似点などの論述に力が入っていますが、そこに立ち入るのは最小限に留め、本題の松尾匡氏の<信用創造を廃止し、貨幣発行を公営化する>主張に集中したいと思います。
社会から乖離する貨幣の創られ方が導く貨幣発行公有化によるヘリマネ論
初めに、いささか遊びじみていますが、この第6章の項に当たる小見出しを順に並べて、繋げてみます。
太字部分がその見出しそのままであり、数字は出てくる順番で、複数の項のグループの先頭と各見出しの終わりに繋ぎ表現を挿入しています。
現状の
1)社会から乖離する貨幣の創られ方、を起点にして考えてみると
2)中央銀行の独立とは銀行界の言いなりになること、であり
3)国債を中央銀行が買う政府支出はヘリマネと同じ、であり
4)国債を民間で持たせる政府支出ではなぜだめなのか、が分かり
5)「ニューケインジアン」の発展バージョン、が生まれることで、
6)信用創造批判派の主張と等しいMMT、であることが理解できる。
振り返ってみると
7)信用創造が合理的だった時代、は確かにあったが
8)投資が興らない時代の信用創造はリスク・決定・責任が矛盾する、ことが明らかになり
9)投資の社会化、を考えるべき時代になってきたと言えよう。
ここで再度
10)対立の根源、を探り
11)価値観の違いがどこにあるのか、を確認すると
12)MMTの理屈の大前提、は信用創造批判派と同様に
13)「納税=財源の支え合い」論の本質、と対抗すること、すなわち、両者が本質的には大きな違いがないことに思い至る。
その認識から、現実的に
14)ヘリマネを何に使うかー私が提唱するシステム、を提示し、それが
15)景気へのプラス、インフレの抑制、へ寄与することを基本として
16)新しい時代に沿ったシステムへ、の移行を真剣に考え、行動に移すべき段階に入っていると考えるのである。
これでは、同書をお読み頂いた方にしか、この意味と詳しい内容は分からないでしょうから、以下に、ポイントと感じる部分をピックアップしていきます。
社会主義的志向としての信用創造批判とその実現には、相当年数がかかる
まず、筆者がこう言っていることから。
信用創造批判派の政府通貨論は、生産手段の私有に基づく資本主義経済体制を変革する社会主義的志向を持つものである。
それを自覚していない論者もいると思われるが、突き詰めれば必然的にそうなる。
なので、そのめざすところは、もともと10年、20年で実現できるレベルの話ではない。
そう。
いろいろ言うのは簡単ですが、政治プロセスに持ち込まざるを得ないので、相当の時間・年数がかかることを想定・認識して、対策などを考える必要がある。
この松尾氏の率直な認識は、私がベーシック・ペンションの実現には10年はかかる、10年は覚悟しておくべきと言っていることと類似しています。
信用創造批判は債務ではない貨幣のシステムを実現しようと求めている。
問題視しているのは、貨幣というのは現実の商品経済においては血液のように誰にとっても重要なものなのに、sれが民間営利銀行によって私的目的んために創られていることである。
(略)
ある企業が設備投資のために銀行から1億円借金をすることになったとき、その銀行は、当該企業がその銀行に持っている預金口座に1億円と書き込む。それだけである
その口座の1億円が、従業員や仕入れ先の預金口座に振り込まれて、支払手段として世の中に流通していくのである。
さらっと書いてますが、実際には、1億円が即現金で引き出されることがあるわけで、書き込む、あるいはキーを叩くだけで済むわけではないことが明示されているとは言えません。
まあトータルでの準備預金があっての言い回しなのですが、ならばそれははっきりと言い訳しておくべき。
ここは素知らぬふりをしますが、しっかり押さえておく必要があります。
信用創造がもたらした「投機」という「リスク・決定・責任が矛盾する」行き過ぎた資本主義
もう一つ、筆者の提案に至る前に確認しておきたい部分があります。
先進国では機械や工場などの資本蓄積がもう十分に進んでしまっていて、今さら設備投資してもそこから新たに上る収益の率はとても低くなってしまっている。
それに労働人口も伸びないのだから、機械や工場を拡大してもそこに貼り付ける人がいない。
だから、設備投資が旺盛に興ることが社会にとって必然の課題ではなくなっているのだ。
そうすると、せっかく銀行が儲けのために貨幣を創れる仕組みを持っているのに、設備投資のためにお金を借りに来てくれない。
そこで、この仕組みが投機のために使われることになる。
(略)
初めの製造業・工業型経済を前提とした例えは、ある意味陳腐化していて、あまり共感を得ることができなくなっていることに留意すべきと思うのだが、左派は意外に無頓着です。
『人新世の「資本論」 』をもってすれば、外部化やグローバル・サウスという手法・概念もありますし、製造業すべてを一括にするのもイージーですし、他産業への投資意欲も現実的には旺盛な側面もありますから。
まあ言いたいことが間違っているわけではないですが、実態・実相を捉えてはいないということです。
かつて設備投資が旺盛な時代にも、景気循環にリスクが連動していた側面はあった。
だが、他方で、銀行が融資した個々のプロジェクトの間ではリスクが相殺されて、どれかがダメでも別のもので埋め合わせが効き、リスクは全体としては管理可能な範囲に入っていた。
しかし、投機はそうではない。
個々の案件の間のリスクは大きく連動している。
なので儲かるときはどれも大きく儲かるが、ダメになるときは一斉にダメになる。
こうやって、結局、責任をある程度国に転嫁できることは最初から読めることである。
しかも、投機の決定をしている個々のディーラーは、自分では自腹を切ることを求められることはなく、転職して高給を取り続けることもできる。
それゆえ、どんどんとリスクの高い投機の決定を行ってしまうことは必然である。
つまり、過去には「リスク、決定、責任」をできるだけ一致させて設備投資を興していく仕組みだったものが、今や乖離させる仕組みになってしまったわけである。
そこで、もうこの仕組みをやめて、別のやり方に変えることが議題に上る時代になったのだと言えよう。
つい先日も、同様の事案がアメリカで発生しているニュースが、何度か報じられています。
そしてコロナ禍、株式市場は、変わることなく、活況を呈しています。
(さすがに、菅内閣の救いようもない政策・対応に、嫌気を催したか、今日は大幅に日経平均は下げているようですが、これも一過性のものでしょう。)
井出英策慶大教授の「納税=財源支え合い」論批判には同意
ちょっと脱線になりますが、ここだけは私が以前述べた以下の記事とぴったり波長が合うので、脱線をご理解頂き、紹介させてください。
(略)このイデオロギーの性格は、MMTにも私にも共通の対抗相手である。
井出英策慶大教授たちのような「納税=財源支えあい」論の(井出オロギー、否)イデオロギーを対比させてみればより明確になる。 ※()は私が付記
納税=財源支え合い論の図式では、国家は市民自身から自らの必要事をまかなうために形成する。
だからこそ彼らは国債を国民の借金ととらえる。
これは、共和主義的なコミュニタリアン(共同体主義)のイデオロギーだと言える。
(以下略)
井出氏グループによれば、ベーシックインカムを批判し、それを上回るシステムとして、消費税を主財源としたベーシック・サービスを提案しています。
その基本的な考え方は、税と社会保障の一体改革、かっこよく言うと財政規律主義。
私はそれには大反対しており、これまでいくつもの反対記事を書いてきています。
最近のものとして、公明党がこのベーシックサービスの導入を検討していることを受けて
◆ ベーシックインカムでなく ベーシックサービスへ傾斜する公明党(2021/4/28)
を投稿しました。
同記事に過去記事にリンクを貼っていますので、関心をお持ち頂けましたらご覧ください。
松尾匡氏提唱システムは、やはり経済至上主義論
では、最大の関心事に入ります。
政府は通貨を創って政府支出をしており、それで民間に通貨が出すぎて総需要が総供給能力を超過してインフレが悪化しないよう民間から購買力を奪って総需要を抑制しているのが租税の客観的機能である。
従って、政府の収支バランスをつけること自体には意味がなく、インフレが管理できればよい。
(インフレ時発生時の政策対応の時間的ギャップ、遅れ・悪化の指摘などに対して)彼ら(MMT)の看板政策である「雇用保証プログラム」は、このような問題に対処するために考えられているから。(略)
しかし、雇用保証プログラムで雇われる人だけでそんなに大きな景気調整効果があるのか私は懐疑的である。
また、景気がよくなったら解雇されても構わない事業というのはどんなものだろうと思う。
(略)
収支バランスを付けることに意味はないとしますが、実態を示しておく意義・意味は必要です。
それを示す上で、債権・債務以外の言葉があれば、それに替えればよいですが、なければ便宜的には、社会経済活動に共通の簿記会計の方法を用いるのが筋と私は思います。
私のベーシック・ペンションでは、専用デジタル通貨が管理主体の日銀に回収されたあと、バーン、消却する方法を取るとしています。
敷いて挙げれば、本章中に「日銀保有国債の一部を、無利子永久債に転換して事実上消却する」という例示が近い概念に当たるでしょうか。
また雇用保証プログラムについても、筆者に同意すると共に、私なりに懐疑的です。
雇用を保証すると言われても、やりたくない仕事、希望しない仕事を押し付けらることも保証のうち、というのは解せませんし、お断りしたいですね。
思わぬ方向に批判が向いてしまいました。
結論を急ぎましょう。
現在よりもはるかに充実した福祉、医療、教育、子育て支援、防災、基礎研究などへの財政支出を行う制度を作る。
そして、好況時の完全雇用下においてこれらの支出の総需要拡大効果を相殺し、インフレをマイルドな目標率に留めるだけの十分な総需要減退効果があるような税制を、大企業や富裕層に今よりもはるかにかける形で設計する。
前段の財政支出の財源にしっかり触れていないことが不満です。
経済学者は、社会保障や教育などの社会的インフラのあり方には、さほど興味関心がないのでしょうか。
それともそうした領域を見下しているのでしょうか。
信用創造批判やMMTを論じる人に共通のクールな側面です。
そういうことにも、さほど現実的に支持者が増えていかない理由があるのでは、と思ってしまいます。
経済学者という同業者間の狭い社会での営みに見えてしょうがないのです。
それでいて、インフレが抑制できると、いとも簡単に机上で、理論として、断言・断定する。
完全雇用という幻想を語るのも同様です。
非正規雇用問題や最低賃金問題、など労働政策・労働行政・労働問題に深く切り込むこともあまり見られません。
労働経済学の「労働」部分が欠落し、「経営経済学」寄りの議論に終わってしまう気がするのです。
こだわりのインフレ抑制実現
一部繰り返しになりますが、もう少し、先述の主張を続けます。
ヘリマネは、究極の理想としては、中央銀行制度を廃止した政府通貨でなされるのが望ましいが、それが現実的でなければ、政府が国債を中央銀行に直接引き受けさせるのでもよい。
それも困難ならば、中央銀行が買いオペする一方で政府が国債を市中消化で発行するのでもよい。
いずれも経済学的にはさほど違いはない。
そして、景気の拡大に合わせて、この設備投資・雇用補助金や給付金を縮小していき、物価安定目標のインフレ率を超えたときには、これ停止する。
すると、その過程で、累進課税や法人税のビルトインスタビライザーの効果も加わって、大企業や富裕層へのネットでの増税効果がだんだん高まり、総需要、特に設備投資需要が減退することで・インフレが抑制される。
こうして完全雇用の好況時には、低い潜在成長率に等しい資本ストックの成長率になるように、設備投資が抑制される。
この税制でその抑制効果が足りない場合にも、並行してこうてい預金準備率の引き上げや売りオペなどの金融引き締め策がとられるので、確実にインフレを抑制することができる。
まあ、細部の違いには目をつむり、もたらす効果・成果が同じならばそれで良しとする現実論です。
それでよいと思います、政治・行政の領域においての条件でしょう、分かりやすさが。
新しい時代に沿ったシステムとは
こう題して、松尾氏はこの章の最後を、以下で締めくくります。
不況時にとられるヘリマネ支出が、直接には設備投資補助金や給付金であることから、インフレの状況に応じて規模がコントロールでき、簡単に撤退できる。
他方、このデフレ不況時の構図を読み替えてみると、現行システムと比べた企業セクター、家計セクターへの増税分が、そのまま企業セクター、家計セクターに設備投資や給付金として戻されて相殺されているとも読める。
そう読めば、結局のところ、中央銀行の創った貨幣で、社会保障や教育などの充実がまかなわれると読んでも、マクロ経済的には同値である。
それから、企業が不況のときには設備投資補助金を受け取り、好況になると利潤が増えたのに応じて高額の法人税を払うという図式は、見方を変えれば、不況のときに政府から設備投資資金を一部借りて、好況になってからそれを返す図式とマクロ経済的には同地である。
ただし、もともと補助金の形式をとっていれば、結局、好況時にも利潤が出ずに法人税を払わなかったとしても、形式上の不公平はない。
そして、信用創造批判論者の精神は、好況時において設備投資を抑制し、不況時において設備投資補助金を出すところに生かされている。
この補助金により選挙を通じて民主的に定められたルールに基づき、社会的、環境的に望ましくない分野への投資を減らし、社会的、環境的に望ましい投資が誘導できる。
このことを通じて、銀行の私的判断で投資がなされる時代から、投資が社会化される時代への移行を進めることができる。
以上が、松尾氏の提案及びその裏付けの説明になりますが、最後はくどかったですね。
最後にいきなり「選挙を通じて民主的に定められたルール」が出てきたのも、そんなかんたんなことなのかな、という疑問がふつふつと湧き出てくるのですが、経済特化論ですから、心配するに及ばないのでしょう。
私などは心配性ですから、そういうことが可能になる内閣・行政体制、その前提としての選挙、その組織基盤としての政党のあり方、それらの連動としての議会・立法プロセス等、乗り越えるべき課題とその困難さの方に、頭が、顔が向いてしまいます。
まあ、それは置いておいて、貨幣発行の公有化への移行の結果、資本主義はどうなるのか、社会化する投資案件や内容やバランス・規模、その管理組織等はどうなるのか、どうするのか。
詳しいことも、予想や目標も、何も提示されていません。
必要ないと考えてのことか、できないからやらないのか、分かりません。
蒸し返しになるやもしれませんが、「結局のところ、中央銀行の創った貨幣で、社会保障や教育などの充実がまかなわれると読んでも、マクロ経済的には同値である。」としてしまうのも、いい加減さを再確認させられ、嫌な気分に引き戻されての終わり方と感じます。
どうもモヤモヤしたままですので、もう1回延長して、他の部分も加えて、本書『資本主義から脱却せよ』論を総括することにします。
資本主義から脱却してどうなるのか、どういう状態をめざしているのか。
確認できると良いのですが。
それにしても、本稿はベーシック・ペンションを論じることが目的ではないのですが、現実的に、こうした議論は、現在、コロナ禍での給付金支給との関係で論じられるばかりです。
これではベーシックインカム、ベーシックペンションの理解を深めること、それが平時においても必要なこととして取り上げられる環境や雰囲気に結びつくことはないように、一層感じられるのが残念でなりません。
参考:松尾匡氏主宰・薔薇マークキャンペーン掲載関連投稿記事
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー1(紹介編)(2021/4/8)
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー2(評価編)その意義と課題(2021/4/9)
参考:ベーシック・ペンションをご理解頂くために最低限お読み頂きたい3つの記事
⇒ 日本独自のベーシック・インカム、ベーシック・ペンションとは(2021/1/17)
⇒ 生活基礎年金法(ベーシック・ペンション法)2021年第一次法案・試案(2021/3/2)
⇒ ベーシック・ペンションの年間給付額203兆1200億円:インフレリスク対策検討へ(2021/4/11)
資本主義脱却でも描けぬ理想社会:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-4(2021/5/13)
以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ。
序論としての初めの2回の投稿は以下。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)
初めに取り上げたのが『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)。
<『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済>と題した、以下の4回シリーズ。
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
◆ なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
◆ 脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)
次いで、『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著:2021/3/30刊)を題材としての以下の3記事を投稿してきました。
◆ 資本主義リアリズム、加速主義、閉塞状態にある資本主義の正し方:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/7)
◆ 知らなかった、民間銀行の濡れ手で粟の信用創造:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2(2021/5/9)
◆ 信用創造廃止と貨幣発行公有化で、資本主義と社会はどうなるのか:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-3(2021/5/11)
そして今回は、以上の3つを受けて、その総括を行います。
『資本主義から脱却せよ』の構成
本書の全編を高橋真矢氏が道案内役として、各章の初めにコメントを寄せています。
そして何より、プロローグを担当し、エピローグも。
ある意味、高橋氏が企画編集したかのように受け止めうる『資本主義から脱却せよ』。
その全体構成は、次のとおりです。
プロローグ 私たちの「借金」とは何か? (高橋氏)
第1章 そもそも、お金とは何か? (高橋氏)
第2章 債務棒引き制度はなぜ、どの程度必要か (松尾氏)
第3章 現代資本主義の問題点 (井上氏)
第4章 私たちは何を取り戻すべきなのか (高橋氏)
第5章 銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ (井上氏)
第6章 信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化する (松尾氏)
第7章 「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは? (高橋氏)
第8章 淘汰と緊縮へのコロナショックドクトリン (松尾氏)
第9章 「選択の自由の罠」からの解放 (高橋氏)
第10章 「考える私」「感じる私」にとっての選択 (松尾氏)
第11章 脱労働社会の人間の価値について (井上氏)
エピローグ 不平等の拡大と個人空間化 (高橋氏)
5章、6章で課題とした、民間銀行による信用創造廃止と、貨幣発行の公有化による国民中心の貨幣制度を実現すれば、どんな社会となるのか、そのことでどんな社会を目指すのかが、その後の課題とされるべきです。
一応、次の第7章<「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは?>において、高橋真矢氏が、3つのB、ベーシックスペース、ベーシックジョブ、ベーシックインカムの必要性・実現を提起したことを、別サイトで以下紹介しました。
◆ 高橋真矢氏によるベーシックスペース、ベーシックジョブ、ベーシックインカム、3B政策と課題(2021/4/22)
ただ、この3つのBベーシックを実現する政治体制や社会経済システムの具体的なあり方は、そこでは踏み込まれていません。
従いこの展開でいくと、8章以降で、当論で目指す、資本主義脱却後の社会と社会経済について、より具体的・現実的に提示・提供すべきと思うのですが。
松尾匡氏、井上智洋氏紹介
それに先立って、まず、松尾匡氏について簡単に。
同氏は、自ら主宰する「薔薇マークキャンペーン」で「反緊縮」を掲げる左派経済学者。
そのサイトにおいて、自身は直接関与しないとして先月公開された、井上氏を含む3氏のベーシックインカム構想を以下で紹介しました。
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー1(紹介編)(2021/4/8)
◆ 朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー2(評価編)その意義と課題(2021/4/9)
そこで分かるように、松尾氏自身は、ベーシックインカムとは少し距離を置いているように思われます。
なお近々、同氏の比較的最近の書『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学 (講談社現代新書)』(2020/11刊)を求めて、考えの基本を再確認してみようとは思っています。
井上智洋氏については、同氏の主張を以下のように何度か取り上げてきています。
◆ ベーシック・インカムとは-3:AIによる脱労働社会論から学ぶベーシック・インカム(2020/6/15)
◆ 井上智洋氏提案ベーシックインカムは、所得再分配による固定BIとMMTによる変動BIの2階建て(2021/2/24)
※参考図書:『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)』『AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)』『毎年120万円を配れば日本が幸せになる』
先述したように、本書の分担部分でも、それらでの主張が繰り返されており、かつ、2氏に比べるとある意味、実務的なパートの担当で終えています。
ということで、結局高橋氏がどう本書をまとめ、ポスト資本主義時代の社会と社会経済を描くのかにかかると思ったのです。
高橋真矢氏の発言から:<第9章「選択の自由の罠」からの解放>より
では、高橋氏による第9章から。
自由は私たちを「幸せ」にするか
資本主義的な社会を貫く法則こそ、「選択の自由」というコンセプトである。
私たちは日々、商品やサービスを選択する。
学校や就職先など進路を選択する。
友人や恋人や結婚相手を選択する。
誰を選ぶのか、誰も選ばないのか、すべて個人の自由である。
これは裏返すと、選別をくぐり抜けるということでもある。
入学試験や就職試験をくぐり抜け、選んでもらえるような商品やサービスを提供し、選んでもらえるような自分にならなければならない。
悲惨な結果であれ、その選択をした人の責任である。
なぜならば、選択を誤ったからである。
選ばれなかったのも、その人の責任である。
その人の努力が足りなかったのだ・・・・
多様な選択肢がある、というのは通常で考えればいいことに違いない。
一方で、私は「選択の自由」というコンセプトそのものにも、一定の疑問符をつけている。
「選択の自由」に関しての「合成の誤謬」が起こっているのではないか、と。
自由を否定したいわけではない。
ただ、自由の「その先」に待っているものについても、そろそろ考えてみたい。
自由からの逃走ではなく、自由からもいったん自由になるということ。
私は、三人でこの本を作るにあたって、自由の価値そのものを、松尾さんと井上さんに今一度問いたいと思った。
お二人とも、自由に高い価値を置いているからだ。
そして、その「自由」は私たちを「幸せ」にするだろうか?
この長い対話は。そこでひとまずの終着点を見るだろう。
「自由」や「平等」。
そして「幸福」。
資本主義に成り代わる何かは、果たして、自由・平等・幸福を保障してくれるのか。
そもそも、このテーマを、本書の中に組み入れる目的・意義は、具体的・現実的にどの程度あるのか。
多様性が、当事者を軸に考えると、単一の数を足したものであるように、選択の自由とは、個々人のレベルでの選択肢の多さを意味するのではなく、人の数だけある選択機会の総和という意味での数の多さをベースにした選択肢の多さとい側面からのことでもあろう。
また、自由・平等・幸福、それぞれ明確な基準を示すことができるはずがないことで、相対的、感覚的な議論に留まることも多い。
思い方、感じ方は人それぞれだし、社会の規模・背景によっても異なる。
そう考えるため、本書への興味をそがれる章となってしまった気がします。
松尾匡氏の発言から考える:<第10章「考える私」「感じる私」にとっての選択>より
次いで、第10章の松尾氏の発言から。
たまたま所属するコミュニティによって選択肢が制約されることが「幸福」だなぞ、筆者(松尾氏)にはおぞましい限りと感じられる。
その意味でリバタリアンだと自覚するし、個人の選択の自由が拡大することこそ幸福を保証すると考えている。
(略)
そもそも資本主義の経済体制のもとで、市民(ブルジョアジー)には営業の自由が保証されていいるが、それは利潤追求という単一の目的を市場から否応なく強要された上で、そのための手段として何が適切かを選択できるという自由に過ぎない。
自己責任でシビアに選ばされて青息吐息になっている市民(ブルジョアジー)の中には、選択肢が増えるほど不幸を感じている者も少なくないだろう。
(略)
それゆえ、選択肢が増えると人が不幸になるという問題の鍵は、本当に大事な選択肢が実質的に限られていることにあったと言えよう。
(略)
当面、生きる術を身につけていなかったり、遊びも知らなかったり、人と愛し合う身構えもなかったりしたとしても暮らしに不自由なく、やがてはいろいろな人生を困難なく送れるようになることを社会が保障してこそ、本当の意味で選択肢が増えたと言えるのである。
(略)
ここで考えられる「自由な選択」というものは、理性的選択とは、ある意味で対極にあることがわかる。
むしろ、選択の結果の自己責任など極力降りかからないよう社会が配慮することが望ましいことになる。
さもなくば、自らの選択の結果を引き受けることができる強い者だけが、実質的な選択肢を享受できることになるのだから。
(略)
このニーズに合致したものは何かということは、どんなに理性を振り絞って計算したとしても、どこまでいっても仮説でしかない。
今採用されているものよりももっといい方法があるかもしれない。
だから、このどこまでいっても未知のニーズに、よりよく合致したものを探すのは、数多くの選択肢からの耐えざる試行錯誤によるほかない。
同じ一人の人間には、(大脳辺縁系で感じるような欲求や情動、身体としての私も含む主体、「感じる私」を自己決定主体としたものと異なり)他方で言葉のような記号の組み合わせを使って「考えている私」という主体もある。
「情報としての主体」と言ってもいい。
人びとに実際に行為をさせるのは、この「考える私」の方である。
自己決定の裏に自己責任が問われるのは、この「考える私」の決定である。
(略)
影響を他人と互いに与え合い、結果としてオリジナリティの高い「考える私」が、人びとのニーズを満たして広く受け入れられていく。
これが、快楽原則を超えた、「人生のストーリーを作る」というようなレベルでの幸福なのだと思っている。
だから、このレベルでの自由とは、交配や突然変異を起こす自由であり、他者から逃げられずに「考える私」を公式に宣伝する自由である。
(略)
筆者の目下の人生も、交配と突然変異という意味ではそれなりにオリジナリティの高い考え方が、それこそ人びとの「感じる私」レベルの暮らしのニーズに合致するために、極少数者から出発して、今のところ広がる展望を持てているという意味では、「幸福」と言えるかもしれない。
しかし、自分の身体レベルの「感じる私」にとってこれが幸福なのかと言えば、いささか生活上のバランスを欠いている気もして、この人生を他人に勧められるかどうかと言えばちょっと躊躇せざるをえない。
鼎談ではそんな話をした。
結婚や生贄などの例を引き合いに出して選択と自由について、高橋氏の意を受けて語っているのですが。
それが、「資本主義からの脱出」後の課題として位置付け、価値付けてのことならば、残念なことであります。
資本主義批判論は、資本主義以外社会においても同様に問いかけられるべき
加えて、上記の両氏の話は、資本主義社会を前提としているのですが、私から見ると、その前提や仮説は、資本主義ではない社会経済体制においても同様の疑問・質問として提起されるものでもあるでしょう。
また松尾氏の話に出てくる、保証された営業の自由というのも誤解であり、さまざまな規制があるのです。
では、社会主義・共産主義体制では、それらの自由はどうなのか、も課題となります。
資本主義から脱却した社会において、こうした選択や自由について、自由に考え、実践できるようになるのか。
あるいは、資本主義から脱却する上でのニーズとして、こうした観点で先に議論しておくべきなのか。
その意図・意味が分かりません。
またこの一部の発言の切り取りにとどまらず、各章のあちこちを確認すると、哲学的というよりも、情緒的・感覚的な発言・表現が多い、というか、そこにとどまっているかのようにも思われるのです。
個人と共同体との関係のあり方について、当然といえば当然ですが、3氏それぞれ異なる考えをもっています。
極端を言うならば、本来重要な「思想的同一性」「共同性」に欠けると思われるのです。
仮に、上記の第9章・第10章が、「起承転結」の「転
」として、多少の気分転換、遊び的なものであったとするなら、全体のまとめとすべき最終<第11章脱労働社会の人間の価値について>にその役割が委ねられます。
井上氏がかねてから主張する、AI社会化の究極の形としての「脱労働社会」実現論を、資本主義脱却後のあり方であるかのように配置したことをどう理解すればよいか。
正直、困惑しています。
不発、軸から外れたままのエピローグ:<不平等の拡大と個人空間化>から
では、必然的に高橋氏のエピローグ<不平等の拡大と個人空間化>に多少の期待感を抱くとして。
・経済的不平等は解決できるか?
・「誰かと共に行きていく」者と「誰とも共に生きない」者の分離
・単身社会と孤独死の増加
・「契約的人間関係」の時代
・この時代に結婚する動機はどこから生まれてくるか?
・「誰とも親密に関わらない」という選択
・「コミュニティからの自由」と「関係性の喪失」
・「個人空間」の誕生
・ベーシック・スペースなき社会
こんな小見出しでつなぐエピローグは、結局、現代社会批判に終わってしまっている感じです。
資本主義脱却後の目指す理想社会の姿を、現実的に、あるいは少なくともイメージ化、想像程度はできるレベルで描かれること、提示されることもありませんでした。
現在の新自由主義をひた走ると見る自民党政権批判は当然のことです。
かと言って、習近平共産党独裁中国も、モンスター・プーチンのロシアも、気違い金正恩北朝鮮も支持するはずもない。
では、民間銀行の信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化して資本主義脱却を実現した後の政治体制、社会経済システム、そして社会保障などの社会システムを具体的にどう描き、どうわれわれ市民と働く人びとに提示し、納得させるのか。
どうもその手立ては、私には結局彼らの論述から読み取ることはできませんでした。
そういう点では、『人新世の「資本論」 』に劣ります。
ポスト資本主義の在り方を、マルクスが真に目指した「コミュニズム」を地球正義、環境危機と関係づけて新たに「人新世」の資本主義批判と結び付けて課題とした『人新世の「資本論」 』シリーズに見劣り、読み劣りします。
またそのシリーズでも指摘した同様の物足りなさ、現実とのズレを感じざるを得ません。
ポスト資本主義考察は振り出しに
そのため、どうやら、ポスト資本主義考察については、振り出しに戻ることになりそうです。
次回は、3冊のうち残る1冊、『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)を取り上げる予定です。
また新刊書に入ると思いますが、『正義の政治経済学 (朝日新書)』(水野和夫・古川元久氏共著・2021/3/31刊)を入手しましたので、こちらも近々取り上げたいと思っています。
<暴走する資本主義・民主主義>とか<資本主義を問い直す>という表現が目に入り、興味関心をそそられています。
「『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム」シリーズ:2021年発刊新書考察シリーズ振り返り-1(2021/12/18)
2021年も最終月。
残すところ2週間に。
当サイト管理者が運営する他の2つのサイトで展開した、新刊新書を中心に取り上げたシリーズを抽出し、それぞれのサイトの運営方針・目的に沿ってのこの1年の投稿活動を振り返ります。
今回は、5月に4回に亘って投稿した、松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著による 『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(2021/3/30刊)を課題とした「『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム」シリーズ。
以下の4回投稿しました。
1.資本主義リアリズム、加速主義、閉塞状態にある資本主義の正し方:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/7)
2.知らなかった、民間銀行の濡れ手で粟の信用創造:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2(2021/5/9)
3.信用創造廃止と貨幣発行公有化で、資本主義と社会はどうなるのか:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-3(2021/5/11)
4.資本主義脱却でも描けぬ理想社会:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-4(2021/5/13)
このシリーズは、望ましい2050年日本社会の構築を目的として運営するWEBマガジンサイト https://2050society.com で展開しましたが、比較的よく読んで頂いています。
左翼・リベラル派の経済学者による書ですが、ベーシックインカム論としての書でもあり、ベーシックインカム専門サイト http://basicpension.jp で取り上げてもよかった書でもあります。
タイトルのみ整理すると
・ 資本主義リアリズム、加速主義、閉塞状態にある資本主義の正し方
・ 知らなかった、民間銀行の濡れ手で粟の信用創造
・ 信用創造廃止と貨幣発行公有化で、資本主義と社会はどうなるのか
・ 資本主義脱却でも描けぬ理想社会
という展開となっています。
なおこのシリーズは、ほぼ同時期に読んだ3冊の新刊新書をひと括りにした「これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ」の一つとしたものでした。
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)
なおそこでも包括的な以下の序論を投稿しています。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
その中の斎藤幸平氏に拠る『人新世の「資本論」 』のシリーズについては、既に当サイトで2021/11/24に以下で紹介済みです。
◆ 斎藤幸平氏著『人新世の「資本論」』紹介・考察シリーズ記事案内
併せてチェック頂ければと思います。
岸田政権が掲げる「新しい資本主義」や「成長と分配」政策が、実際に機能するのか、実現するのか。
上述した反資本主義、反緊縮主義の流れや勢いが、オミクロンで第6波のコロナ感染拡大も懸念される2022年に、自公政権のもとどのように変化するか。
第三者的な模様眺めに終わることなく、新たな年も問題意識を持ち、新刊書にも目配りして迎え、臨みたいと思っています。

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